Y染色体C2c系統

Y染色体ハプログループC2c1系統 【縄文系】

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C2c1系統(C-F2613/Z1338)の分布図

picture from Geno 2.0

稲葉浩志

B'zのボーカリスト・稲葉浩志(Koushi Inaba, 1964-  )のY染色体は、ハプログループC2c1(C-F2613/Z1338)であると推定されている(注1)(注2)。
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これは、韓国人ブロガーによる推測に基づくものであり、根拠は明確にされていない。

注2)ISOGG 2017(ver12.295)による表記。原文による旧表記では「C2e(C-F2613/Z1338)」である。

百済・温祚王

百濟王族の太祖・温祚王(Onjo of Baekje/온조왕)のY染色体は、ハプログループC2c1(C-F2613/Z1338)であると推定される(注1)。
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注1)『隋書』新羅伝によれば、「新羅国は高句麗の東南に在り(中略)、その王(新羅王)は、もとは百済人で、(中略)新羅に進入し、遂にその国の王となった。(百済の太祖)温祚(王)から伝世、金真平に至り、開皇14年(594)に遣使を以て方物を貢献した。真平は高祖に拝謁し、上開府、楽浪郡公、新羅王の爵位を賜った」とあり、また『梁書』新羅伝には、「新羅、その先祖は元の辰韓の苗裔である。辰韓は秦韓ともいう。(中略)辰韓(新羅)王は常に馬韓(後の百済)人を用いて擁立し、代々に継承され、辰韓(新羅人)は自ら王を立てることはできない」とある。これに基づけば、新羅王族のハプログループC2c1b(C-F845, CTS10923)金氏は、百済王家の太祖のハプログループC2c1(C-F2613/Z1338)からの分岐である可能性が考えられる。

Y染色体ハプログループC2c1a系統 【縄文系】

百済・蓋鹵王

百濟 第21代・蓋鹵王(加須利君/かすりのきみ/餘慶/慶司,  -475)のY染色体は、ハプログループC2c1a(C-Z1300, Z1301/CTS4021)であると推定される(注1)(注2)。
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百濟王族の始祖は温祚王で高句麗王と同祖。高句麗王の始祖は朱蒙(東明王)と言われ、その先は扶餘氏に出る(注3)(注4)。(※しかし、高句麗王の子孫、百済王の子孫それぞれから得られたサンプルによれば、父系関係は無い) 蓋鹵王は、宋 泰始4年(468)、雄略天皇に七支刀を奉献したことで知られ、七支刀は奈良 石上神宮に現存している(注5)。

注2)ISOGG 2017(ver12.31)による表記。改定される前の原文のISOGG 2013迄の表記では「C3e1(C-Z1300)」である。
注4)百濟王族は、扶餘系C2c1a(C-Z1300)を出自とするが、百濟の民衆は南方系のO1b2a1(O-F1204)系統が多数であったと考えられている。
注5)七支刀の銘文(表面)には「泰始四年五月十六日丙午正陽、造百練鋼七支刀。㠯辟百兵、宜供供侯王永年大吉祥(泰始四年(468)夏の中月なる5月、夏のうち最も夏なる日の16日、火徳の旺んなる丙午の日の正牛の刻に、百度鍛えたる鋼の七支刀を造る。これを以てあらゆる兵器の害を免れるであろう。恭謹の徳ある侯王に栄えあれ、寿命を長くし、大吉の福祥あらんことを)」とある。七支刀の伝来年に関しては、従来「東晋 太和4年(369)」説が主流であったが現在は否定されている。その理由は、1.太和4年(369)に「五月十六日丙午」が存在しないこと。2.東晋の年号は「太和」であって「泰和」ではないこと。3.百濟が東晋に初めて朝貢したのが「西暦372年正月」であることから、それより以前に、東晋の年号を使う(臣下に入る)ことが不審である。4.「太和」の「太」は「泰」と同意味で、両方通用したとの説があるが、銘文に刻む際、画数の少ない漢字から、画数の多い漢字に置き換えることは不審であるとの見方が強い。5.「泰◼︎四年」は百濟の独自年号とする説があるが、それでは何年にあたるか全く確証が無く、かつ百濟の年号で「泰◼︎」を持つものが一切確認できる無いことなどが上げられる。「西晋 泰始4年(268)」に比定した場合は、『日本書紀』神功皇后 摂政52年(252)條の記載に最も近いことになるが、西暦268年は、百濟の建国以前であり(※伝説上は、百済 第8代・古尓王(在位:234-286)の治世にあたる)、百濟が西晋に朝貢を行った事実も無いため、西晋の年号を使うことは不審とされる。そもそも「七支刀」に刻まれている銘文の漢字は、臣下から献上されたものでも下賜されたものでも無い吉祥句の文言である。そのため、王から王へ外交上、同盟関係を表す意味で贈られた可能性が高い。「宋 泰始4年(468)」であれば、暦でも「五月十六日丙午」が存在し、百済は宋に朝貢を行っており、かつ倭王・武も、宋に遣使を行っている為、外交上、宋の年号が使われたとしても矛盾が生じない。『日本書紀』の記載によれば、現在は「泰◼︎四年」となっている箇所が、『日本書紀』の編纂当時は「泰始四年」と読めていたことを示しているが、残念ながら『日本書紀』の作者は、これを「西晋 泰始4年(268)」と誤認したため『日本書紀』の紀年に基づき「神功皇后の時代に献上されたもの」と理解されたと考えられている。その証拠に、七支刀の裏面にある銘文「先世以来未有此刀。百濟王世子奇生聖徳。故為倭王旨造、伝示後世(先代以来、未だ此の如き刀は無かった。百濟王の世子は奇(めずら)しく生れて聖徳があった。そこで倭王の為に嘗(はじ)めて(この七支刀を)造った。後世に伝示せんかな)」とある「百済王の世子(王子)」は、蓋鹵王の子・武寧王(嶋王)が日本で生まれたこと指しており、このことに関して『日本書紀』は「(百濟の)昆支が倭国に向かう際に伴った婦人(蓋鹵王の妃)が筑紫の各羅嶋(かからのしま)まで来たときに王子が生まれたので百濟に戻され、その王子が武寧王である」と言うことが記載されている。武寧王は、嶋君(しまきみ, 斯麻王, 461-523)という日本名を持ち、1971年、韓国公州にある宋山里古墳群の武寧王陵を発掘したところ、棺に使われていた木材が日本産の高野槙であることが学術調査の結果、明らかとなっている。

百済・扶余豊璋

百濟 第31代・義慈王の世子・扶余豊璋(623?-668?)のY染色体は、ハプログループC2c1a(C-Z1300, Z1301/CTS4021)である(注1)(注2)(注3)(注4)。
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豊璋は、弟・善光と共に日本と百済の同盟を担保する人質として来日したが、日本側は太安万侶の一族・多蒋敷の妹を豊璋に娶わせるなど賓客扱いであった。660年、唐・新羅の連合軍(唐羅同盟)が百済を滅ぼし、父・義慈王が薨去したという知らせが届いた為、弟と共に百済を復興すべく帰国。豊璋と日本軍は、百済復興軍の司令官・鬼室福信と合流し、豊璋は百済王に推戴されたが、次第に実権を握る鬼室福信との確執が生まれ、663年6月、豊璋は鬼室福信を殺害した。実戦に長けた鬼室福信を失ったことにより百済復興軍は著しく弱体化し、8月27、28日の両日、百済復興軍と日本水軍の連合軍は、唐・新羅の連合軍と白村江で合戦し大敗を喫した。豊璋は数人の従者と共に高句麗に逃れたが、高句麗も内紛につけ込まれて668年に唐に滅ぼされた。豊璋は高句麗王族らとともに唐の都に抑留され、高句麗王・宝蔵王らは許されて唐の官爵を授けられたが、豊璋は許されず、嶺南地方に流刑にされた。
信濃の善光寺は、もと金刺氏(注5)の氏寺で、金刺氏の先祖の科野(しなの)国造家の一族の一部は、百済の朝廷に仕えていたが、白村江の敗北で百済復興が不可能になったため、日本に帰国した。この百済からの亡命者の中心になったのが、百済王豊璋の弟・善光(注6)であり、日本への亡命の際に「百済仏」を持ち帰り奉った。科野氏は善光の薨去後、その菩提を弔って信濃に「善光寺」を開基。善光の持ち帰った百済仏を本尊とした。善光の子は持統天皇の御代、百済王(くだらのこにきし)の姓を賜り、百済王の血統を今に伝えている。

注2)ISOGG 2017(ver12.228)による表記。改定される前の原文のISOGG 2013迄の表記では「C3e1(C-Z1300)」である。
注4)百濟王族は、扶餘系C2c1a(C-Z1300)を出自とするが、百濟の民衆は南方系のO1b2a1(O-F1204)系統が多数であったと考えられている。
注5)金刺氏は、諏訪大社(下社)の社家の一族でもある。
注6)『日本書紀』によれば百済王善光、『続日本紀』では徐禪廣と表記される。

諸葛孔明?

中国後漢末期から三国時代にかけて活躍した蜀漢の天才軍師・諸葛孔明(本名:諸葛亮, Zhuge Liang, 181-234)のY染色体は、ハプログループC2c1a(C-Z1300, Z1301/CTS4021)である可能性が浮上した(注1)。
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これは、韓国人ブロガー、ユーチューバー・Karasaro-濊貊韓朝から得られたサンプルに基づく。Karasaroは、韓国慶尚南道昌原市出身の漆原諸氏で、漆原諸氏は族譜によれば諸葛孔明の子孫・諸葛嬰を始祖とする氏族である。諸葛孔明の本貫は、中国徐州琅邪郡陽都(現 山東省臨沂市沂南県)で、司隷校尉・諸葛豊の子孫。泰山郡丞・諸葛珪の子。諡は忠武侯であるが、実際には「漆原諸氏」は滅亡した百済王族の末裔である可能性も浮上している。(※詳細は【議論】の頁へ)


I氏

徳島県鳴門市出身のI氏(1850s-  )のY染色体は、ハプログループC2c1a(C-Z1300, Z1301/CTS4021)である(注1)(注2)。これは、I氏の子孫から得られたサンプルに基づく結果である。

注1)The Genographic Project 2.0 "OUR STORY"(Izumi Hikozo)
注2)ISOGG 2016(ver11.110)による表記。改定される前の原文のISOGG 2015迄の表記では「C2e1(C-Z1300)」である。

Y染色体ハプログループC2c1a1系統 【縄文系】

美容板の縄文人

2chねらー・美容板の縄文人のY染色体は、ハプログループC2c1a1(C-F3755)である(注1)。
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注1)2ch『美容板の縄文人のY染色体』(2017.8.16)

M氏

長野県駒ヶ根市出身のM氏(1849-1913)のY染色体は、ハプログループC2c1a1(C-F3755)である(注1)(注2)。これは、M氏の子孫から得られたサンプルに基づく結果である。

注1)FTDNA"JAPAN DNA Project - Y-DNA"(Kit Number:210650, Miyazawa)
注2)ISOGG 2016(ver11.110)による表記。改定される前の原文のISOGG 2015迄の表記では「C2e1a(C-CTS11990)」である。

小橋川筑登之昭昌・小橋川秀男

琉球・小橋川筑登之昭昌(こばしがわ・ちくどぅん・しょうしょう, 唐名:鉏應基)のY染色体は、ハプログループC2c1a1(C-F3755)である(注1)(注2)。これは、1905年にハワイに移住した、小橋川家の子孫から得られたサンプルに基づく解析結果である(注3)。この結果に伴い、沖縄県出身で在米日系二世の画家・小橋川秀男(1917-2001)のY染色体も、ハプログループC2c1a1(C-F3755)であろうと推定されている。
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注2)ISOGG 2016(ver11.110)による表記。改定される前の原文のISOGG 2015迄の表記では「C2e1a(C-F3755)」である。
注4)The Genographic Project 2.0 "OUR STORY"

Y染色体ハプログループC2c1a1a1系統 【蒙古系】

チンギス・カン

モンゴル帝国の太祖・チンギス・カンのY染色体は、ハプログループC2c1a1a1(C-M407)である(注1)(注2)。モンゴル帝国の正史である『元朝秘史』によれば、モンゴル帝国の太祖チンギス・カンの遠祖は「天の命令を受けてバイカル湖畔に降り立ったボルテ・チノ(蒼き狼)とコアイ・マラル(白き雌鹿)である」と記されているがこれはトーテミズムによる神話的伝承である。現在チンギス・カンの子孫という家系の人々はモンゴル・中国・インド・アラビア・朝鮮など世界に約1600万人存在すると言われている。その中で、チンギス・カンのY染色体は概ねハプログループC2c1(C-F2613)であることは間違いないと推定されているが、子孫と言われる人たちのY染色体のSTRが完全に一致している訳ではなく、チンギス・カン自身の墓が見つかっていないため断定的ではない(注2)(注3)。
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        (チンギス・カン)
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DYS 393 390 19 391 385a 385b 426 388 439 389i 392 389ii
Alleles 13 25 16 10 12 13 11 14 10 13 11 29

DYS 458 459a 459b 455 454 447 437 448 449 464a 464b 464c
Alleles 18 8 8 11 12 26 14 22 27 11 11 12

注2)ISOGG 2016(ver11.110)による表記。改定される前の原文のISOGG 2015迄の表記では「C2e1a1a(C-M407)」である。
注3) The Genetic Legacy of the Mongols

Y染色体ハプログループC2c1a2系統

司馬炎

西晋武帝・司馬炎(236-290)のY染色体は、ハプログループC2c1a2(C-F3880, subclade-F948)である(注1)。これは臨沂洗硯池晋墓の埋葬者・M2から得られたサンプルを、復旦大學が解析した結果に基づく。この墓の埋葬者は琅琊王・司馬覲、もしくは司馬裒と見られている(注2)。
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この結果に基づき、司馬炎の祖父である司馬懿(179-251)のY染色体もハプログループC2c1a2(C-F3880, subclade-F948)であることが明らかとなった(注3)。

注1)分子人類學論壇『臨沂洗硯池晋墓遺骸DNA研究報告』(2017.2.20)「臨沂洗硯池晋墓M2可能是晋代琅琊王司馬覲或司馬裒的墓葬,復旦大學古DNA團隊對遺骨進行了DNA檢測,研究報告収録于《臨沂洗硯池晋墓》附録2。DNA檢測獲得了Y染色體上8箇STR標記,并用SnaPshot檢験了SNP,確認墓主的父系遺傳類型爲C3南支-F3880-F948」
注2)分子人類學論壇『臨沂洗硯池晋墓墓主STR匹配結果』(2017.2.25)「臨沂洗硯池晋墓可能是晋朝皇室司馬氏琅琊王的墓葬,《臨沂洗硯池晋墓遺骸DNA研究報告》中,復旦團隊對M2男性墓主進行了17-STR位点的檢測,提取到了8箇STR位點。根據該8箇STR位点對已有樣本進行匹配,則可能尋 找到該墓主所属父系親族在現代的后代,并估算其在各地區所占比例。可進一歩推測其起源及遷徙情况。首先在各地區樣本中對該8-STR進行匹配,因該樣本已經SNP實測確認爲C3南支-F3880-F948,在匹配過程中加入C3的特征値DYS392=11排除无關樣本,實際爲9-STR匹配。得到全同及相差三歩之内的数據比例」

春日虎綱

武田信玄の家臣・春日虎綱(Toratsuna Kasuga, 1527-1578)のY染色体は、ハプログループC2c1a2a(C-F3799.1)である(注1)。これは彼の子孫から得られたデータに基づく解析結果である(注2)(注3)。
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春日氏は、諏訪神族の嫡流・金刺宿禰浄成の三男・春日成富を始祖とする家柄で、その子孫・春日大隅の嫡男が春日虎綱にあたる(注4)。

DYS 393 390 19 391 385a 385b 426 388 439 389i 392 389ii
Alleles 14 23 16 10 11 17 11 13 11 13 11 29

DYS 458 459a 459b 455 454 447 437 448 449 464a 464b 464c
Alleles 13 8 8 11 11 26 14 21 30 12 14 15

注1)FTDNA"JAPAN DNA Project - Y-DNA STR"(Kit Number:N144419, Kasuga)
注2)"JAPAN DNA Project - Y-DNA SNP"(Kit Number:N144419, Kasuga)
注3)ISOGG 2016(ver11.110)による表記。改定される前の原文のISOGG 2015迄の表記では「C2e1b1(C-F3799.1)」である。
注4)姓氏類別大観『諏訪氏系図


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  • 最終更新:2017-11-21 07:41:21

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