Y染色体D1b1a2b系統

アフリカ大陸の北東部にいた古代(約6万8,500年前)のある一人の男性の遺伝子に起きたYAPと呼ばれる因子を持つ系統。この系統は、Y染色体上の長腕部「DYS287 Yq11」に、約300塩基からなるAlu配列(Alu sequence)の挿入多型を余分に持つことで知られる。

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(左)D1b系統の分布図   (右)D系統の拡散経路を示す想定図(2017)

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Y染色体D1b1a2b系統(Yap+)【日本固有種】

分子時計の推算によれば、ハプログループD1b1a2からハプログループD1b1a2bへは、約1万年前に分岐した系統である。

Y染色体D1b1a2b1系統(Yap+)【日本固有種】

分子時計の推算によれば、ハプログループD1b1a2bからハプログループD1b1a2b1へは、約7,000年前に分岐した系統である。

Y染色体D1b1a2b1a系統(Yap+)【日本固有種】

分子時計の推算によれば、ハプログループD1b1a2b1からハプログループD1b1a2b1aへは、約4,000年前に分岐した系統である。

崗上虜囚

評論家・崗上虜囚のY染色体は、ハプログループD1b1a2b1a(D-CTS1982, subclade-Z1500)である(注1)。

崗上虜囚の先祖は、岡山県新見市の岸本城主・吉岡道秀で、戒名は「賢休院殿右近道秀清居士」である。

注1)『天皇の遺伝子2』(2018.5.13)

Y染色体D1b1a2b1a1系統(Yap+)【日本固有種】

分子時計の推算によれば、ハプログループD1b1a2b1aからハプログループD1b1a2b1a1へは、約1,000年~1,700年前に分岐した系統である。

源義家

清和源氏の嫡流で鎮守府将軍を相続した源義家(Minamoto no Yoshiie, 1039-1106)のY染色体は、ハプログループD1b1a2b1a1(D-Z1504)である(注1)(注2)
yoshiie.jpgshogun_modal.jpg
     (八幡太郎源義家)
DYS 393 390 19 391 385a 385b 426 388 439 389i 392 389ii
Alleles 13 25 17 10 13 17 11 12 12 14 11 31

DYS 458 437 448 Y-GATA-H4 456 438 635        
Alleles 15 14 19 11 15 10 21        

鎮守府将軍は、歴史的には清和源氏のみが独占したものではないが、源義家の祖父・源頼信、父・源頼義、源義家と鎮守府将軍職を相続したことから、源頼信より分流した家系のY-STRは便宜上「Shogun modal」と呼ばれている。鎌倉幕府を開いた源頼朝は、義家の玄孫にあたる。また、義家の弟・源義光の子孫から守護大名の甲斐武田家が出るなど、非常に多くの分流を輩出した(注3)。ハプログループD1b1a2系統のマイクロサテライト最頻値は、日本最多のグループを形成している。これらに属する推定600万人余りの男性は、約1,000年前に共通祖先を持つ人々であることが明らかで、他系統ではこれに並ぶものは存在しない(注4)。

注1)D2a1b(D-CTS107/IMS-JST055457, IMS-JST022457) Shogun Y-STR modal defined by chojae
注2)ISOGG 2017(ver12.50)による表記。原文によるISOGG 2013表記では「D2a1b*(D-IMS-JST022457, subclade-Z1504)」である。

源頼朝

鎌倉幕府を開いた源頼朝(Minamoto no Yoritomo, 1147-1199)を含む清和源氏のY染色体は、ハプログループD1b1a2b1a1(D-Z1504)である(注1)(注2)(注3)。
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        (源頼朝)
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DYS 393 390 19 391 385a 385b 426 388 439 389i 392 389ii
Alleles 13 25 17 10 13 17 11 12 12 14 11 31

源頼朝は、河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・源義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ配流されたが、やがて配流地の伊豆で以仁王の令旨を受け、北條時政、北條義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として源義仲や平氏を倒し諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192)に征夷大将軍に任じられ鎌倉に幕府を開いた。

注1)D2a1b(D-CTS107/IMS-JST055457, IMS-JST022457) Shogun Y-STR modal defined by chojae
注2)ISOGG 2017(ver12.50)による表記。原文によるISOGG 2013表記では「D2a1b*(D-IMS-JST022457, subclade-Z1504)」である。

武田信玄

甲斐国守護・武田信玄(Harunobu Takeda, 1521-1573)のY染色体は、ハプログループD1b1a2b1a1(D-Z1504)である(注1)。
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佐竹敬久

秋田県知事・佐竹敬久(Norihisa Satake, 1947- )のY染色体は、ハプログループD1b1a2b1a1(D-Z1504)であると推定されている(注1)。
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佐竹敬久の父方曾祖父・和井内貞行(Sadayuki Wainai, 1858-1922)は、南部藩領陸奥国鹿角郡毛馬内村(現 秋田県鹿角市)の出身。和井内家(Wainai clan)は、南部藩の重臣で毛馬内陣屋(柏崎新城)城代・桜庭氏の筆頭家老職を代々務めた家柄。和井内貞行は、秋田県十和田湖開発の先駆者として著名。現在は「和井内神社」に神として奉られている。

和井内氏の始祖は『刈屋高昌院由来書』によると閉伊田鎖氏の庶子・上野介高義の三男・高敏が陸奥国閉伊郡和井内(現 岩手県宮古市和井内)に分知され、入領した高敏の家系が和井内館を築いたと云われている。和井内氏は、戦国時代中期に三戸南部氏の支配下に組み込まれ『茂市刈屋一揆の由来』によると天正年間(1573-1592)初期、三戸南部氏が田鎖氏討伐の為、家臣・桜庭安房守を閉伊郡に差し向けた際、刈屋・和井内氏はこれに同調して田鎖方の茂市館を攻撃したとされる。また慶長5年(1600)に起きた「和賀一揆」では南部勢に加勢し「二百石・和井内三平(光積)此下七人」が(『岩崎御出陣人数定』)が岩崎城に出陣している。

田鎖氏(Takusari clan)はもと閉伊氏(Hei clan)と云い、陸奥国の武家で本姓は清和源氏。鎌倉時代から戦国時代にかけて、陸奥国閉伊郡(現 岩手県宮古市)を本貫として閉伊氏を称した。鎌倉時代の閉伊氏は鎌倉御家人であり、閉伊十郎は北条貞時から由比ヶ浜に宅地を与えられている。 また正応から元応にかけて、閉伊光員の遺領を巡って子の閉伊光頼と閉伊員連が争った。この裁定は北条高時が鎌倉で行い、光頼には呂木(老木)、閉河(閉伊川)、多久佐利(田鎖)、小山田、閉崎(閉伊崎)、赤前の地の領有を、員連には鍬崎(鍬ヶ崎)、笠間の領有を認めている。閉伊氏の後裔には、田鎖・刈屋・和井内・茂市・長沢・花輪・高浜・根市・中村・赤前・重茂・大沢・蟇目・田代・山崎・荒川・近内・小山田・江刈内・箱石・大川などの諸氏があり、閉伊郡各地の地頭として、領内の地名を氏として勢力を拡大した。建武の新政で鎌倉幕府が崩壊すると、光頼の子、閉伊親光は陸奥国司の北畠顕家に従い所領を安堵された。南北朝時代になると閉伊氏一族は南朝側である顕家率いる奥州武士団に加わり、豊島河原合戦、青野ヶ原の戦いで足利尊氏らの軍勢を打ち破るが、石津の戦いに敗れ敗走する。室町幕府の成立後、閉伊三郎に宛てて奥州総大将に任命された石塔義房から軍勢催促状が送られている。 これは閉伊氏が石塔義房の進める奥州勢力再編に従った事を示している。 その後閉伊氏は新たに居城となる田鎖城を築き、閉伊氏嫡流は田鎖氏を名乗るようになった。田鎖城は永和年間の築城とされる(『日本城郭体系2』)。

閉伊氏は、源為朝(鎮西八郎)の四男・嶋為頼が奥州閉伊郡半地の地頭に補されたことに始まる家柄。保元の乱で敗北した源為朝が、配流された伊豆で男子を儲けた。これがのちに閉伊氏の家祖となる、島為頼で、為頼は源頼朝に従い、その命で佐々木秀義の四男・高綱の猶子(相続を伴わない養子)となり、佐々木十郎行光を名乗り佐々木氏を称して四つ目結を家紋とした。源頼朝が奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼすと、行光は閉伊郡、気仙郡の統治を任せられる。建久年間、適地を求め気仙から閉伊に移った行光は、領地の名を取り、閉伊頼基と名乗った。これが閉伊氏の始祖で、閉伊川沿岸で勢力を拡大。多くの地侍を従へ「閉伊源氏」と呼ばれた。

注1)『佐竹秋田県知事と皇室の関係』(2015.6.4) 記事の中で、日本固有種のハプログループD1bである可能性に言及されている。

舜天王

琉球国舜天王朝の太祖・舜天王(Shunten-ou, しゅんてん-おう, 1166-1237)のY染色体は、ハプログループD1b1(D-M116.1)であると推定されている(注1)。
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    (鎮西八郎源為朝)        (舜天王)              (尚泰王)

2005年の研究調査では、沖縄県の男性45人中25人(55.6%)がD-M55に属しており、その内訳はD-M55(xM116) 2/45 = 4.4%、D-M116(xM125) 14/45 = 31.1%、D-M125(xP42) 7/45 = 15.6%、D-P42 2/45 = 4.4%であることが明らかとなった。正確を期すためにより多くの子孫たちによる遺伝子調査の参加が期待されている。

舜天王は、保元の乱で伊豆に流刑となった源為朝(鎮西八郎)の子で、『中山世鑑』によれば、為朝の船が嵐に遭い、沖縄本島の今帰仁に漂着し、その地の豪族・大里按司の妹と結婚し、生まれた子を「尊敦(後の舜天王)」と名付けた。尊敦は15歳で浦添按司となり、琉球の逆賊・利勇を征伐したことにより、琉球諸侯の推挙を受けて中山王となった。舜天王朝は3代目の義本王の時に一旦滅んだが、後に第一尚氏が倒れたあと新王統を開いた第二尚氏の始祖・尚円王は、『中山世譜』など正史によると舜天王統の義本王朝の七世孫であると記されている。『中山世鑑』を編纂した羽地朝秀は、摂政就任後の1673年3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、為朝が王家の祖先だというだけでなく琉球の人々の祖先が日本からの移住者であると述べている(注2)(注3)(注4)。

注1)Hammer MF1, Karafet TM, Park H, Omoto K, Harihara S, Stoneking M, Horai S."Dual origins of the Japanese: common ground for hunter-gatherer and farmer Y chromosomes."(2005.11.18)
注2)Thomas Pellard 『日琉祖語の分岐年代』京都大学(2012.2.19)
注4)真境名安興『真境名安興全集』第一巻19頁参照。元の文は「「此国人生初は、日本より為レ渡儀疑無二御座一候。然れば末世の今に、天地山川五形五倫鳥獣草木の名に至る迄皆通達せり。雖レ然言葉の余相違は遠国の上久敷融通為レ絶故也」。なお、2005年以降の分子生物学の研究で沖縄県民と九州以北の本土住民とは、同じY染色体ハプログループに属する祖先を持つことが明らかになっている。高宮広士札幌大学教授が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降である為、10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘(朝日新聞 2010年4月16日)するように、考古学などの研究も含めて南西諸島の住民の先祖は、九州南部と共通する人々を主体として構成されたものであるとされている。また『日本書紀』、『古事記』に記されているように、皇室の祖先も九州南部の宮崎県を発祥とする人々であったことが指摘されている。
注5)『全人類系図』(2017.4.4) Most of Japanese males share their paternal lineages with the Imperial Family. Poznik et al. (2016) have reported that the males in the JPT (Japanese in Tokyo, Japan) sample of the 1000 Genomes Project are :皇別D1b-M55(36%)20/56, 神別O1b2-P49(32%)18/56, 諸蕃O2-M122(18%)10/56, 地祇C1a1-M8(7.1%)4/56, 諸系O1a-M119(3.6%)2/56, 諸系C2-M217(3.6%)2/56

佐々木秀義

平安時代末期の武将・佐々木秀義(Hideyoshi Sasaki, 1112-1184)のY染色体は、ハプログループD1b1a2b1a1(D-Z1504)であると推定される(注1)(注2)。
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      (佐々木秀義)
13歳の時に、源為義(1096-1156)の猶子となり、成人して為義の娘と婚した。実父は、近江国蒲生郡佐々木庄の領主・佐々木為俊、母は奥州安倍宗任(1032-1108)の娘。平治合戦の時、源義朝に従い敗れて所領を追われた。母方の従兄弟である奥州 藤原秀衡(  -1187)を頼って落延びる途中、秀義の武勇に惚れ込んだ相模国澁谷庄の領主・澁谷重国に引き留められ、食客した。源頼朝の挙兵の時に、息子等4人を差し向け忠義を表した。のち本貫を安堵されるも討死し、近江権守を追贈された(注3)。

平治合戦で領国を追われた時、佐々木秀義自身は、奥州まで落ち延びなかったが、一族郎党の多くは奥州藤原氏を頼って落ち延びた。現在でも秋田、青森、岩手、宮城に佐々木姓が多いのはこのためであると言われる。

注2)EastAsiaDNA "Y-DNA of Miyagi-Sasaki"(2016.9.24)
注3)佐々木秀義の母(安倍宗任の娘)の姉が藤原基衡(  -1157)に嫁ぎ、生まれたのが藤原秀衡(  -1187)であるため、佐々木秀義の母方の従兄弟が藤原秀衡となる。

新田義貞

南北朝時代の武将・新田義貞(Yoshisada Nitta, 1300-1338)のY染色体は、ハプログループD1b1a2b1a1(D-Z1504)である(注1)(注2)。
nitta_yoshisada.jpg
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これは、新田義貞の子孫複数名から得られたサンプルに基づく解析結果である。
DYS 393 390 19 391 385a 385b 426 388 439 389i 392 389ii
Alleles 13 25 17 10 13 17 11 12 13 14 11 31

DYS 458 459a 459b 455 454 447 437 448 449 464a 464b 464c
Alleles 16 9 9 11 12 24 14 19 30 16 16 18

注2)23andMe"DNA RELATIVES"

安倍晋三

総理大臣・安倍晋三(Shinzo Abe, 1954-   )のY染色体は、ハプログループD1b1a2b1a1(D-Z1504)であると推定されている(注3)(注4)。正確を期すため本人による遺伝子検査が期待されている。
shinzo_abe.jpg
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安倍晋三の先祖は、奥州安倍頼良(Yoriyoshi Abe,  -1057)で、頼良の三男・安倍宗任(Muneto Abe, 1032-1108)は、合戦で敗れてのち九州大宰府へ配流された。安倍家は、この安倍宗任を初代とする家柄。宗任の三男・安倍季任(Sueto Abe)は肥前・松浦氏に仕え 、安倍季任の子が「松浦(Matsuura)」の姓と「松浦梶(Matsuura-Kaji)」の家紋の使用を許されて松浦実任(Saneto Matsuura)と名乗った。松浦実任の曾孫・松浦高俊(Takatoshi Matsuura)は、のちに平清盛(Taira no Kiyomori, 1118-1181)に仕えた。松浦高俊の娘は、平知忠(Taira no Tomotada)と結婚し、安倍知任(Tomoto Abe)を生んだ。平知忠は、清盛の四男・平知盛(Taira no Tomomori, 1152-1185)の三男にあたるため、安倍知任以降の世代の安倍家の男性たちは、平知忠のY染色体を継承してきたと考えられている(注5)。第39代当主・安倍彪助(Hyosuke Abe)は、椋木家(Mukunoki clan)からの婿養子であるが、椋木彪助の実祖父は安倍家から椋木家へ 婿養子として入った人物であるため、安倍家と椋木家のY染色体は同じであり、彪助は安倍家に養子に入る形で戻ってきたことになると考えられている(注1)(注4)(注5)(注6)。

注1)野上忠興『安倍晋三のDNA』講談社(2004.4.1)
注3)5ch"Y-dna of Shinzo Abe"(2017.10.5)
注5)『平家物語』、『百練抄』、『前太平記』、『歴代鎮西要略』、『筑紫軍記』、『長州安倍氏系図』、『安倍一族』盛岡タイムス(1989)による。

Y染色体D1b1a2b1a1a1系統(Yap+)【日本固有種】

グレン・義人・正田 博士

テキサス大学教授・グレン・義人・正田 博士(Dr.Glenn Yoshito Masada, 1950-  )のY染色体は、ハプログループD1b1a2b1a1a1(D-FGC6373)である(注1)。グレン・マサダは、広島県出身でハワイに移住した、正田初治(Hatsuji Masada, 1859-1925)の子孫である(注2)(注3)。

DYS 393 390 19 391 385a 385b 426 388 439 389i 392 389ii
Alleles 13 25 16 10 13 16 11 12 11 13 11 30

注1)"Masada clan's dna(Ysearch)

本郷源之丞

仙台藩士・本郷源之丞(Gennojo Hongo)のY染色体は、ハプログループD1b1a2b1a1a1(D-FGC6373)である(注1)(注2)。これは、本郷源之丞の四男の二男の子孫から得られたサンプルによる解析結果である(注3)(注4)。

本郷氏の遠祖は、村上天皇の後裔で源姓を賜り臣籍降下した村上源氏である(注5)(注6)。本郷氏の始祖は、承久の乱ののち若狭国大飯郡本郷(現 福井県大飯郡大飯町本郷)の新補地頭に任じられ同地に下向した本郷美作左近大夫源朝親で、子孫は南北朝時代 北朝に仕えて将軍直轄の奉公衆となり、15世紀中頃には若狭守護職・武田氏の配下に組み込まれた。元亀元年(1570)4月、織田信長が越前国・朝倉征伐のため若狭に進出した際、矢部家定を介して織田家に仕えて所領を安堵されたが、信長が本能寺の変で自害したのち本郷の達城(現 福井県大飯郡大飯町尾内)から離散した(注7)。本郷源之丞は、徳川藩政末期・仙台藩のお姫様附きの士分で、明治維新の大業が成就し、廃藩置県により国体が正位に復すると家禄を奉還。以後は高等専門学校の教職を得て後人の育成に盡力した。

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注5)東京大学史料編纂所所蔵『本郷系図』

山崎内蔵允

亀山藩士・山崎内蔵允(Kuranojo Yamazaki)のY染色体は、ハプログループD1b1a2b1a1a1a(D-L137.3)である(注1)。山崎内蔵允は、慶應4年(1868)10月22日、天野遠秀(儀太夫, 錦洞斎)や、天野遠謨(刑部左衛門)らと石大神まで遊山したことが『天野錦洞斎日記』に記されている(注2)。

DYS 393 390 19 391 385a 385b 426 388 439 389i 392 389ii
Alleles 13 25 15 11 13 17 11 12 11 14 11 31

注1)Family Tree DNA "Y-DNA D Haplogroup"
注2)『天野錦洞斎日記』天野家文書(36-12-1)

Y染色体D1b1a2b1a1a9系統(Yap+)【日本固有種】

大庭景義

平安時代末期の相模国の武将・大庭景義(Kageyoshi Ohba, 1128-1210)のY染色体は、ハプログループD1b1a2b1a1a9(D-Z40687, subclade-BY13985)である(注1)。大庭景義は、平良文の末裔で、鎌倉景政の曾孫にあたる(注2)。
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DYS 393 390 19 391 385a 385b 426 388 439 389i 392 389ii
Alleles 13 25 17 10 13 16 11 12 12 14 11 31

DYS 458 459a 459b 455 454 447 437 448 449 464a 464b 464c
Alleles 15 9 9 11 12 25 14 19 31 16 16 19

注1)Family Tree DNA "Y-DNA D Haplogroup"
注2)『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』


modoru.jpg susumu.jpg

  • 最終更新:2019-03-09 10:07:16

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