Y染色体O2a2系統

Y染色体ハプログループO2a2系統

茂木健一郎

脳科学者・茂木健一郎のY染色体は、ハプログループO2a2(O-IMS-JST021354/P201)である(注1)(注2)。茂木健一郎の祖父は、群馬県高崎市の出身。茂木健一郎のミトコンドリアDNAはこちらを参照。
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注1)茂木健一郎のI love 脳 『私の祖先はネアンデルタール?』(2014年2月3日号, 読売新聞)
注2)ISOGG Tree(ver.11.14)による表記。原文のISOGG 2010による旧表記では「O3a3」である。

末永匡

ITエンジニアで、株式会社wktk(ワクテカ)の代表取締役・末永匡(1980-   )のY染色体は、ハプログループO2a2(O-IMS-JST021354/P201)である(注1)(注2)。末永匡は、長崎県長崎市の出身。
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注2)ISOGG Tree(ver.11.14)による表記。原文のISOGG 2010による旧表記では「O3a3」である。

Y染色体ハプログループO2a2a系統

高麗王・王建

初代高麗王・王建(877-943)のY染色体は、ハプログループO2a2a(O-M188)である(注1)(注2)。弓裔の部下であった王建は、918年に謀反を起し、自ら「高麗人の末裔」と称して国号を「高麗」とし、都を「開城」に定めた。『編年通録』によると王建の始祖は「虎景」という人物で、虎景の孫に「損乎述」があり、損乎述は「宝育」と改名した(国祖)。宝育は姪(兄の娘)の「徳国」を娶り、娘の「辰義」をもうけた。辰義は無名の中国人の行商人との間に「作帝建(懿祖)」を生んだ。作帝建の息子、「竜建(世祖)」は松岳(現在の開城)を拠点に半島西南の海岸部で貿易をしていた豪族で、王建は新羅憲康王3年(877年)1月31日に竜建の息子として生まれたという。この伝承に基づけば、作帝建の父は中国人であることから、王建の父系先祖は、中国人であるといえる。
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DYS 393 390 19 391 385a 385b 426 388 439 389i 392 389ii
Alleles 12 25 17 10 13 20 11 13 11 13 13 30

注1)FTDNA"Korea DNA-Wang Geon (왕건)"(Kit Number:203845, Wang)
注2)ISOGG Tree(ver.10.116)による表記。原文のISOGG 2014による旧表記では「O3a2b1(O-M188)」である。

Y染色体ハプログループO2a2a1a1系統

呉延寵(海州呉氏)

高麗・睿宗時代に女真族を討伐した武将で、 高麗吏部尚書・門下侍中平章事を歴任した呉延寵(1055-1116, U Yeonchong)のY染色体は、ハプログループO2a2a1a1*(O-CTS201, subclade-F4010.2, F1531)である(注1)。呉延寵の六世祖・呉仁裕は、もと宋国(中国)の大學士で、成宗3年(984)高麗に帰化し檢校軍器監を務めた人物。子孫が黄海道(海州)に世居して本貫とした。本貫の「海州」は現在の「韓國黄海南道海州市」にあたる。2000年の調査では422,735人。
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      (呉延寵)

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服部保長と服部正成

戦国武将・服部保長のY染色体は、ハプログループO2a2a1a1(O-CTS201)である(注1)。菊岡如幻の『伊水温故』によれば、服部保長の先祖は、漢より渡来した漢服部(あやはとり)の家系で、代々「平内左衛門」という名を世襲した。源平合戦に、平知盛の郎党として武功を挙げた、服部家長(平内左衛門)の直系子孫が服部保長である(注2)。服部保長の四男は、服部半蔵の名で知られる服部正成(1542-1596)である。
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DYS 393 390 19 391 385a 385b 426 388 439 389i 392 389ii
Alleles 12 24 17 10 14 19 11 13 11 12 13 29

注1)FTDNA"JAPAN DNA Project-Hattori"(Kit Number:204021, Hattori)
注2)「保長の始祖は『新撰姓氏録』などによると、「呉国より渡るを呉服部(くれはとり)といい、漢より渡るを漢服部(あやはとり)といいけり。呉服部は秦姓なり」とあり渡来人という。(中略)服部氏に三流あり、漢服部は平内左衛門相続し(中略)と、菊岡如幻の『伊水温故』にある。平内左衛門とは、伊賀(服部)平内左衛門家長のこと。源平合戦には、権中納言・平知盛(平清盛の四男)の郎党として武功を挙げた。(中略)保長は、この左衛門家長の直系という」『戦国忍者列伝 -乱世を暗躍した66人-』清水昇著

姫路藩士・松原夏蔵と実業家・柳田富士松

先祖が伊賀国出身である播州姫路藩士松原夏蔵のY染色体は、ハプログループO2a2a1a1*(O-CTS201, subclade-F4010.2)である(注1)。これは、松原夏蔵の五世孫の男性から得られた結果に基づくものである(注2)。松原夏蔵は、服部半蔵の男系子孫と言われる家柄(注3)。また、実業家・柳田富士松(1867-1928)も松原夏蔵の男系子孫である為、Y染色体は同じハプログループO2a2a1a1*(O-CTS201, subclade-F4010.2)であることが明らかとなった(注4)。鈴木商店は大東亜戦争以前にあった大商社で、1874年ごろに鈴木岩治郎が神戸で創業した砂糖商に始まるが、その発展は1894年の岩治郎の死後、番頭の金子直吉、柳田富士松によってもたらされた。征台之役の後、鈴木商店は台湾総督府民政長官の後藤新平と結び、1899年の台湾樟脳専売制施行に際しては、樟脳油の一手販売権を獲得、その発展の糸口をつかんだ(注5)(注6)。柳田富士松の二男が太陽鉱工監査役柳田義一(1898-   )、三男・柳田泰蔵(1904-   )、四男・日本金属化学社長柳田彦次(1905-   )、五男・柳田健作(1915-   )である(注7)(注8)。
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      (松原恒七)           (柳田富士松)

注2)松原夏蔵から被験者男性へ連なる系図は「松原夏蔵-松原藤助(1789-1861)-松原恒七(1819-1881)-松原恒雄-松原哲舟-(男性)」となる。
注3)もしくは、服部半蔵と同族の男性の男系子孫の可能性もある。また、被験者男性の母方の祖先は日本最長の刀鍛冶・波平行安に連なる家系を継承している。
注4)白石友治編『柳田富士松傳』(金子柳田両翁頌徳会, 1950)によれば「柳田富士松の傳記を書くには、まずその実父松原恒七(1819-1881)のことから書き起こさなければならない。松原恒七の源を尋ねると徳川時代の中頃(明和年間)播州姫路酒井藩の家中に松原夏蔵という人がいた。身分禄高の程はつまびらかではないが、城下、一丁町の商家多々屋庄蔵の娘ゆうを娶って一子をもうけ藤松と名付けた。誕生の年は寛政元年(1789)である。この人が本稿の主人公柳田富士松の祖父に当たる。「富士松」命名の由縁も此処に起因している。ところが夏蔵は藤松の幼少の頃、かりそめの病が基で身罷ったので、若い後家の「ゆう」は一子、藤松を連れて姫路寺町に住む杉寿庵という藩士で剣道の指南役をしている侍と再婚し、寿庵との間に忠明という一子をもうけた。物心ついてからの藤松は、自分は母「ゆう」の連子であるという肩身の狭い思いをした。また、忠明という杉家の相続人ができてから義父の態度がにわかに変わって、何事につけても藤松につらく当たる。母は両者の間に立って、言うに言えない気兼ねをし、藤松も両親に対する気兼ねに淋しい月日を過ごしてきた。然して16歳の時、藤松は意を決して単身姫路を出発して大坂に出てきた。これは文化元年(1804)の事である。頼って行った先は同郷(姫路)の先輩で、姫路特産の「なめし革細工の煙草入れ」を大坂に持って行って商いをする辰巳屋嘉兵衛という人であった。辰巳屋の商標は「カネ辰」と記したが、これが後年鈴木商店の「カネタツ」の屋号の起源である。場所は心斎橋筋の現在の大丸百貨店の東方で、永く「びっくりぜんざい」という甘党を喜ばす店のあった辺りであるといふ。藤松は名を藤助と改めて、嘉兵衛のもとで忠実に奉公した。数年にしてその忠勤が主人に認められ、藤助は嘉兵衛の次男久兵衛のために南店を道頓堀に開いた時、ぬきんでられてそこの番頭に出世した。当時辰巳屋で売り出されていた煙草入れは、なめし革細工に僅かばかりの金具がついている。主人の嘉兵衛は、「南店で売れた煙草入れの金具の部分の利益は藤助にやる」という約束で、倅の後見役の形で盛り場 道頓堀の新店を任せたのであった。この新店に見習い奉公に来ていた「直(なを)」という女中がいた。(長堀通りの)新町西口の堺屋利兵衛の娘であったが、藤助は主人の許しを得て「直(なを)」と結婚し、店の付近にささやかな家を借りて新世帯を持った。毎日早朝、夫婦は共々「辰巳屋」へ勤めに行く。勤め先の辰巳屋では一は番頭、一は女中で永く夫婦共稼ぎの年月を送った。間も無く長男政七が生まれたが共稼ぎの世帯では未だ子供の養育はおぼつかないので大阪住吉の柳田某(この柳田は本編の柳田とは無関係)に養子にやった。藤助31歳の時(文政2年)次男が生れた。幼名は藤吉、長じて恒七と名乗った人でこれが柳田富士松の実父である。藤吉が幼少の頃のある夏の夕べ、辰巳屋南店の格子戸の外で母の「直(なを)」が主人久兵衛の息子と自分の息子とが仲良く遊んでいるのを見守っていると一人の旅僧が通りかかって、しばらく子供をじっと眺めていたが、ややあって「直(なを)」に向かって「どっちがあんたの子じゃ」と尋ねた。「直(なを)」が汚い装いをしている藤吉を恥ずかしそうに指さして「これが私の子供で、こちらが御主人の坊です」と、奇麗な着物を着ていた主人の子供を指さした。旅僧はおもむろに口を開いて、「さてさてあんたは良い子を持ったものじゃ。この子の顔にはとても出世する立派な相が出ている。それに反してお前さんの主人の子供は気の毒じゃがお前さんの子供に厄介になる相が出ている」と言い捨てて、どこともなく過ぎ去ったという話が残っている。後年この子供達の時代になった時、辰巳屋は没落して旅僧の予言通りの状態になった。藤助は辰巳屋嘉兵衛に奉公して丁度20年目の36歳(文政7年, 1824)の年「辰巳屋」の暖簾を分けてもらって大坂、大宝寺町に新店を開いて独立し、子の恒七が長ずるに及び家督を譲り、万延2年正月24日73歳で殁した。養嗣子に出した長男政七に家督を譲った。次男恒七との他に、はる、まさ、ひさの三女を残した。妻の「直(なを)」はその後永く生きて、明治12年7月2日に亡くなった」とある。
注6)『柳田富士松翁頌徳碑』によれば「柳田富士松翁は、大阪の侠商松原恒七の長男に生まれ姻戚柳田家を嗣ぐ。資性謹直質朴穏健の士也。十九歳の時鈴木商店に入り店主夫妻の薫陶を受く。長ずるに及んで同店砂糖部を担任し店主没後は専ら、よね刀自を助け大いに才腕を振るい商権を拡張して主家発展の基礎を築き、金子翁と共に同店の二大柱石として世に知らる。金子翁の天衣無縫の躍進の影には常に翁の緊密周到の守備があり、終生管鮑の交わりをなし互いに補佐扶掖し克く我が財界に鈴木商店の名を大をなさしめたり。昭和三年二月九日脳溢血のため逝く。享年六十二歳也」とある。
注7)近現代・系図ワールド『鈴木岩次郎・柳田富士松系図
注8)人物特集・鈴木商店のあゆみ『辰巳屋恒七(松原恒七)の人となり

Y染色体ハプログループO2a2a1a2系統

項羽

楚の武将で秦を倒し西楚の覇王と呼ばれた項羽(BC232-BC202)のY染色体は、ハプログループO2a2a1a2(O-M7)である(注1)(注2)。
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注1)分子人類學吧『中國王室皇族Y-DNA單倍群表』(2014.12.5)
注2)ISOGG Tree(ver.11.140)による表記。原文のISOGG 2014による旧表記では「O3a2b*(O-M7)」である。

Y染色体ハプログループO2a2a2a系統

松岡與左衛門

松岡與左衛門(1815-1853)のY染色体は、ハプログループO2a2a2a(O-F1226)である(注1)(注2)。これは、彼の子孫で減色プログラム「pag1テトラへドロン」の開発者でソフトウェア作家・松岡肇(1961-  )から得られたデータに基づくものである(注3)。松岡肇の血液型はO型で、兵庫県姫路市飾磨区下野田の出身(注4)(注5)(注6)(注7)。家紋は「丸に三つ松」。
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DYS 393 390 19 391 385a 385b 426 388 439 389i 392 389ii
Alleles 11 24 15 9 13 24 11 12 12 13 13 29

注2)Twitter"Hajime MATSUOKA's Geno 2.0 result"(2016.6.26)
注5)『松岡肇
注7)ISOGG Tree(ver.10.79)による表記。原文のISOGG 2014による旧表記では「O3(O-M122)」である。

Y染色体ハプログループO2a2b1系統

潮汕曾氏

中国・潮汕曾氏のY染色体は、ハプログループO2a2b1*(O-M134*, M117-, subclade-CTS11525)である(注1)(注2)。潮汕曾氏の族譜によると、曾氏の始祖は、「孔子および左丘明の弟子の曾子(本名:曾參, BC505-  )で、子孫は山東より江西へ移住し、更に福建から広東の潮汕へ移住した」と記載されている。
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DYS 393 390 19 391 385a 385b 437 448 439 389i 392
Alleles 12 23 15 10 14 16 15 20 12 13 12

注2)ISOGG Tree(ver.10.116)による表記。原文のISOGG 2014による旧表記では「O3a2c1*(O-M134*, subclade-CTS11525)」である。

王仁

応神天皇の時代、百済を経由して日本に渡来した・王仁(わに)博士のY染色体は、ハプログループO2a2b1(O-M134)であると推定される(注1)(注2)。王仁博士の子孫は、西琳寺跡がある河内国古市郡古市郷を本拠地とする西文氏(かわちのふひと)として栄えた。
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注1)松本克己『日本語の系統とその遺伝子的背景』(千葉大学, 2012.11.15)
注2)ISOGG Tree(ver.11.73)による表記に更新。原文の表記では「O3e-M134」である。

新漢人大圀

推古16年(608)に派遣された、第3回遣隋使の学生・新漢人大圀(いまきのあやひとおおくに)のY染色体は、ハプログループO2a2b1(O-M134)であると推定される(注1)(注2)。
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古来より日本は隋と対等な関係を結びたいという強い意思を持っており、その機を熟考していた。当時、隋はたびたび高句麗と合戦をしていたが、隋はそのたびに撃退されたため、日本が高句麗と同盟を結び、隋に敵対してくることを憂慮していた。聖徳太子は、この国際情勢を鑑み、小野妹子を遣隋使として派遣するにあたって、隋と対等な関係を結ぶ好機と捉えて国書を作成。遣隋使のもたらしたこの国書は、隋の煬帝にとっては屈辱的であったが、聖徳太子の緻密な計算どおり、隋はこの対等な関係を示した国書を受け取らざるを得なかった。小野妹子は隋の答礼使として裴世清(はいせいせい)を同行して、翌年帰国した。

注1)松本克己『日本語の系統とその遺伝子的背景』(千葉大学, 2012.11.15)
注2)ISOGG Tree(ver.11.73)による表記に更新。原文の表記では「O3e-M134」である。

世田谷一家殺害事件の容疑者

2000年に東京都世田谷区の一家4人が惨殺された事件の容疑者のY染色体は、ハプログループO2a2b1*(O-M134*)である(注1)(注2)。このハプログループは、日本人では珍しいが、中国人では約10人に1人、韓国人では比較的多く約5人に1人の割合に見られる。容疑者の遺留品の中には、韓国でしか販売されていない「スラセンジャー」というメーカーのスニーカー(27.5cm)や、韓国製のヒップバッグも含まれている。世田谷一家殺害事件の容疑者のミトコンドリアDNAはこちらを参照。
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注1)ISOGG Tree(ver.10.116)による表記。原文のISOGG 2002による旧表記では「O3e*(O-M134)」である。

Y染色体ハプログループO2a2b1a1系統

徐福

中国 秦代の方術士・徐福のY染色体は、ハプログループO2a2b1a1(O-M117)であると推定される(注1)。これは、江蘇省の徐氏 男性複数名から得られたデータに基づく(注2)。
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DYS 393 390 19 391 385a 385b 437 448 439 389i 392 458
Alleles 13 24 14 10 13 18 15 20 13 13 14 19

司馬遷の『史記』よると、徐福は、斉国の琅邪郡(現 山東省臨沂市)の出身であるが、1982年『中華人民共和國地名辭典』編纂の際に行われた国家的規模の学術調査において、江蘇省連雲港市贛楡県金山鎮にある「徐阜」という村に、徐福にまつわる伝承や遺品が集中して発見された。この村は、少なくとも清朝 乾隆帝の時代より以前から「徐福村」と呼ばれており、徐福自身は「蓬莱郷」と「不老不死の仙薬」を求めて東方へ船出したが、残された親族が、のちに江蘇省へ移り住んだと伝えられている(注3)。一方、日本の和歌山県には、韓人・李梅渓が揮毫し、紀州藩祖・徳川頼宣が建てた「秦 徐福之墓」という墓がある。

注1)分子人類學論壇『江蘇揚州徐氏O3a3c1,M117+』(2010.6.20)
注2)ISOGG Tree 2017 (ver.12.31)による表記。原文のISOGG 2010による旧表記では「O3a3c1(O-M117)」である。
注3)宮城谷昌光『異色中国短篇傑作大全』 講談社、2001年、146頁、ISBN 4-06-264970-5

半内誠一

半導体技術者・半内誠一のY染色体は、ハプログループO2a2b1a1(O-M117)である(注1)(注2)。血液型はO型で、茨城県日立市の出身(注3)(注4)。半内誠一のミトコンドリアDNAはこちらを参照。
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DYS 393 390 19 391 385a 385b 426 388 439 389i 392 389ii
Alleles 12 25 14 10 13 18 11 10 13 12 14 28

DYS 458 459a 459b 455 454 447 437 448 449 464a 464b 464c
Alleles 16 9 9 11 11 24 16 20 33 12 12 15

注1)『半内誠一』(facebook)
注2)ISOGG Tree(ver.11.18)による表記。原文のISOGG による旧表記では「YDNA Haplogroup O3a3c1:O-M117 (M117+, M134+, M162-), mtDNA Haplogroup D4b2b1」である。
注4)"Seiichi Hannai's Y-dna"(Ysearch)

李舜臣(徳水李氏)

李氏朝鮮時代の将軍・李舜臣のY染色体は、ハプログループO2a2b1a1(O-M117)である(注1)(注2)(注3)。李舜臣は、朝鮮京畿道開豊郡徳水を本貫とする徳水李氏で、高麗の武官(神虎衛中郎将)・李敦守を始祖とする。李敦守は、1218年契丹が高麗に侵入した時、これを防衛して功績があった。また、李氏朝鮮時代の朱子学者・李珥(号:栗谷, 1536-1584)も同じ本貫であるため、李珥のY染色体もハプログループO2a2b1a1(O-M117)であると推定される。
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DYS 393 390 19 391 385a 385b 426 388 439 389i 392 389ii
Alleles 12 23 14 10 14 19 11 10 12 11 14 27

注2)FamilytreeDNA Korea Project의 한 덕수 이씨분의 부계하플로 결과는 O2a2c1a(M117).
注3)ISOGG Tree(ver.11.18)による表記。原文のISOGG 2014による旧表記では「O3a2c1a(O-M117)」である。

金玉均(新安東金氏)

韓国・新安東金氏のY染色体は、ハプログループO2a2b1a1(O-M117)である(注1)(注2)。福澤諭吉の支援を受け、日本の明治維新を模範として朝鮮の近代化と、清朝からの独立を目指した金玉均は、この新安東金氏の出身である。金玉均は、閔氏政権打倒を目指して甲申事変を決起するが敗れて日本に亡命した。その後、再起をはかろうと上海へ渡るが閔妃の刺客・洪鐘宇の手に掛り暗殺された。
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新安東金氏の始祖・金宣平(김선평)は、王建の高麗建国に際し尽力。のち功労を認められて「開国功臣」とされ安東に領地を賜った人物。

注1)The Genographic Project 2.0 "OUR STORY"
注2)ISOGG Tree(ver.11.18)による表記。原文のISOGG 2014による旧表記では「O3a2c1a(O-M117)」である。

ベニグノ・アキノ2世

フィリピンの政治家で大統領国防省顧問ベニグノ・アキノ2世(Benigno Simeon "Ninoy" Aquino, Jr., 1932-1983)のY染色体は、ハプログループO2a2b1a1(O-Page23)であると推定される。これは、アキノ姓のフィリピン人男性から得られたデータに基づくものである(注1)(注2)。ベニグノ・アキノ2世の父は、ベニグノ・アキノ1世(Benigno Aquino, Senior, 1894-1947)、祖父はセビラーノ・アキノ(Servillano Aquino, 1874-1959)である。
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注1)The Genographic Project 2.0 "OUR STORY"
注2)ISOGG Tree(ver.11.18)による表記。原文のISOGG 2014による旧表記では「O3a2c1a(O-Page23)」である。

Y染色体ハプログループO2a2b1a1a系統

秦始皇帝

秦始皇帝のY染色体は、ハプログループO2a2b1a1a(O-M133)であると推定される(注1)(注2)(注3)。
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注1)『探析中華民族的源流』(2007.11.11)
注3)『弥生人の起源』(2011.10.2)

秦河勝

聖徳太子の側近として活躍した秦河勝のY染色体は、ハプログループO2a2b1a1a(O-M133)であると推定される(注1)(注2)(注3)。
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         (秦河勝)
秦河勝の子孫としては、楽家の東儀家、猿楽の始祖観阿弥世阿弥親子、四国の戦国大名の長宗我部元親長宗我部盛親親子などが知られる。
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        (東儀哲三郎)                 (世阿弥)                 (長宗我部元親)
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注1)『探析中華民族的源流』(2007.11.11)
注3)『弥生人の起源』(2011.10.2)

Y染色体ハプログループO2a2b1a2系統

北魏・道武帝

北魏の初代皇帝・道武帝(本名:拓跋珪, 371-409)のY染色体は、ハプログループO2a2b1a2(O-F444)である(注1)(注2)。北魏(386-534)は、中国の南北朝時代に鮮卑族の拓跋氏によって建てられた国で、前秦崩壊後に独立し華北を統一して五胡十六国時代を終焉させた。
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注2)分子人類學研究、歴史的迷霧再一次抜开,歴史記載、文化對比與分子人類學證据的碰撞再一次很好地掲示了東亞最“囂張”的一類Y單倍群-O3-M134*(即F444)的來源與擴散的路線圖。(1)鮮卑族來源的后裔Y-DNA測試結果。最近一例Y測試結果落地:根据家族記憶來源于北魏皇室,且姓氏属于北魏皇室后裔姓氏源流,其測試結果果然爲O3-M134*(F444貝塔族)。北魏皇室属于拓跋鮮卑部落(也有人主張拓跋部本是匈奴一支)。而此作者前貼關于海外華人資助的小姓測試結果顕示,來自于東部鮮卑的几支姓氏均爲F444:慕容姓也是F444(來源于慕容鮮卑),宇文氏爲O3a2(没往下游測), 來源于宇文鮮卑,極有可能也是F444。對于這樣姓氏来源純正單一,家族歴史記憶可靠(代代口口相傳的家族記憶比太多造假的家譜更可靠), 一両個様本就够説明問題了:鮮卑族系或許正是漢族以致東亞其他民族中F444成分的最大源頭來源,他們在中國歴史上以及他們的后裔在現代歴史上都扮演了重要角 色。今天O3-M134*約占漢族頻率8%-15%左右。
注3)ISOGG Tree(ver.11.316)による表記。原文のISOGG 2014による旧表記では「O3a2c1(O-M134*, subclade-F444)」である。

任宰範(豊川任氏)

韓国のロック歌手・任宰範(イム・ジェボム/임재범/Yim Jae-beom,1962-   )のY染色体は、ハプログループO2a2b1a2(O-F444)であると推定される(注1)(注2)。これは、豊川任氏の男性複数名から得られたデータに基づく推定結果である(注3)。
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注1)分子人類學論壇『豊川任氏-任宰範 O3-F444』(2013.6.17)
注2)ISOGG Tree 2017(ver.12.31)による表記。原文のISOGG 2013による旧表記では「O3a2c1*(O-M134*, subclade-F444)」である。

崔岷植(全州崔氏)

韓国の俳優・崔岷植(チェ・ミンシク/최민식/Choi Min-sik, 1964-   )のY染色体は、ハプログループO2a2b1a2(O-F444)であると推定される(注1)(注2)。これは、全州崔氏の男性複数名から得られたデータに基づく推定結果である(注3)。この結果により、全州崔氏慶州崔氏は、同一父系に基づかない男系子孫同士であることが明らかとなった。
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注1)分子人類學論壇『全州崔氏-崔岷植 O3-F444』(2013.6.17)
注2)ISOGG Tree 2017(ver.12.31)による表記。原文のISOGG 2013による旧表記では「O3a2c1*(O-M134*, subclade-F444)」である。
注3)최민식씨는 한국을 대표하는 연기파 배우입니다. 그는 범죄와의 전쟁이라는 영화에 출연후 한 매체와의 인터뷰에서 경주 최씨 충렬공파의 최익현이라는 캐릭터를 연기를 한 것에 대해 진짜 경주 최씨이냐는 질문에 자신은 전주 최씨라고 밝힌바 있습니다. 저희 카페 올라온 경주 최씨 2분은 O2b와 O2b1a로 밝혀져 있고, 원주 최씨 한분이 M117+, M133+, 그리고 전주 최씨로 추정되는 F444 샘플과 본관을 알수 없는 최씨 한분이 F444로 알려져 있습니다. 그중에 전주 최씨로 추정되는 F444는 양천 허씨분과 17좌위 값이 거의 일치하는 결과가 나타났습니다. 최민식씨는 넘버3, 취화선, 쉬리, 파이란, 올드보이, 범죄와의 전쟁, 신세계 등에서 존재감 넘치는 카리스마 연기로 충무로에서 독보적인 케리어를 쌓아나가고 있습니다.

大山倍達(全州崔氏)

武道家、空手家・大山倍達(おおやま ますたつ, 旧名:崔永宜/최영의, 1922-1994)のY染色体は、ハプログループO2a2b1a2(O-F444)であると推定される(注1)。これは、全州崔氏の男性複数名から得られたデータに基づく推定結果である。
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         (大山倍達)        (大山倍達-壮年期)
大山倍達は、朝鮮全羅北道金堤郡龍池面臥龍里の出身。本貫は全州崔氏(文忠公派)。派祖・崔群玉(文忠公) の八世孫・崔瀁(晩六堂, 1351-1424)の24世孫・崔基百の子が崔承鉉で、承鉉の四男が大山倍達にあたる。崔群玉は、東州(鐵原)崔氏の始祖・崔俊邕(高麗開國功臣三重大匡太師)の子孫と言われる(注2)。大山倍達は、龍池小学校に入学後、ボクシングを始め、1934年、隣村の復興小学校へ転校。1936年、キリスト教系の京城英彰中学校へ進学。京城の下宿で生活しながら、YMCAボクシングクラブで練習を行った。16歳の時、乱闘事件によって退学処分となり、勘当されて釜山へ。空手家・曹寧柱に会い「日本一の軍人になってやる」との志を抱き、渡海して山口県下関へ。さらに京都の協和塾に寝泊まりし、義方会道場で剛柔流空手を知る。1940年4月、山梨県の山梨航空技術学校(現・日本航空高等学校)に入学。1942年、航空学校卒業後、甲府の七澤家に下宿し勉強。大山虎雄と名乗り、陸軍士官学校を受験するも不合格。上京して政治家・辻兼一の書生となり、6月、松濤館道場の船越義珍に師事した。1945年大東亜戦争の終戦時、倍達は厚木航空基地で、航空機整備兵として奉職していたが、基地内では日本の降伏を受け入れない兵士たちが「降伏反対運動」を行っていた。倍達もこの運動に精力的に参加し、「アメリカより押し付けられた新憲法(日本国憲法)の改正」を目的とする運動に身を投じた。倍達の兄・崔永範の語るところによると「当時、ほとんどの朝鮮人は日本が戦争に勝つ事を確信し願っていた」。また「教育が遅れていた朝鮮に日本がたくさんの学校を作ってくれた。日本語を強制されたことは無い。むしろ日本人教師は懸命にハングルを学んでいた」という。1947年に京都で開催された戦後初の空手道選手権で倍達は優勝。1952年、プロ柔道の遠藤幸吉四段と渡米。全米各地で在米のプロレスラー「グレート東郷」の兄弟という設定で空手のデモンストレーションを行いながら、プロレスラーやプロボクサーと対決した。帰国後大山は、牛を素手で倒し(合計47頭、うち4頭は即死)、その映像は映画『猛牛と戦う空手』1954年として公開された。1964年、国際空手道連盟極真会館を設立し、数々の名だたる弟子・名選手を輩出している。多くのフルコンタクト系各流派を生み出す元ともなった。

崔承鉉(全州崔氏)

大山倍達の父・崔承鉉(1894-1979)は、身長6尺を超える恵まれた体格を持ち、豪放でありながら誠実な人格で人望が厚く、1923年29歳の若さで龍池面長(村長)となった人物。承鉉は、幼くして聡明。はじめ石亭李定稷先生に師事して文を学び、先生が亡くなると裕齋宋基冕先生に師事し学を修めた。「学問は単なる知識の蓄積ではなく実践してこそ価値を表す」との信念を持ち、貧しい人々があれば稲を授け、病人を助けようと医学(漢方)を学んだ。面長(村長)となってからも苦難の連続で、旱魃に何年も悩まされ、堤防を築いて治水をすること13箇所。郡農會分區長をつとめ、福利厚生の整備にも力を注ぎ、龍池面普通學校設立推進期成會を組織し、また推されて農村振興會長、芙蓉學校學務委員、金堤鄕校掌議を歴任した。1935年には、漢諺混交文で書かれた『自力更生の感覺』という本を出版し啓蒙活動を行った。1945年大東亜戦争の終戦後の混乱期も面長(村長)を務め、戦後復興に尽力。全州崔氏宗族会の総代を務め、『全州崔氏大同譜』、『全州崔氏派譜』、『全州崔氏家乘』などの族譜を編纂、計5回刊行した。日本融和時代から計画してきた「臥龍駅」の誘致に尽力し、遂に完成されるや政界を引退して余生を過ごした。崔承鉉は、金寧金氏(名:芙容)を妻として、逸雲永命永範永宜永定永宗の6男と1女を生んだ。崔永宜が日本に帰化して大山倍達と名乗った(注2)。

注2)『全州崔氏大同譜』、『全州崔氏派譜』、『全州崔氏家乘』

趙治勳(豊穣趙氏)

二十五世本因坊・趙治勳(ちょう ちくん/조치훈/Jo Chihun, 1956-   )のY染色体は、ハプログループO2a2b1a2(O-F444)であると推定される(注1)。これは、豊穣趙氏の男性複数名から得られたデータに基づく推定結果である。
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注1)分子人類學論壇『豊穣趙氏-趙治勳 O3-F444』(2013.6.17)
注2)ISOGG Tree 2017(ver.12.31)による表記。原文のISOGG 2013による旧表記では「O3a2c1*(O-M134*, subclade-F444)」である。

Y染色体ハプログループO2a2b1a2a1a1系統

變熊男爵

2ちゃんねらー、ブロガー・變熊男爵のY染色体は、ハプログループO2a2b1a2a1a1(O-F163)である(注1)。變熊男爵の祖父は青森県の出身で、父系祖先は秋田県から青森県へ移住した家柄(注2)。變熊男爵のミトコンドリアDNAはこちらを参照。
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注1)"2ch"(2012.12.11)
注2)『變熊男爵(^^)』(Ameba blog)
注3)ISOGG Tree(ver.11.316)による表記。原文のISOGG 2015による旧表記では「O2a2b1a2a1a2c1(O-F46, subclade-F163)」である。

Y染色体ハプログループO2a2b1a2a1a2系統

箕子(清州韓氏)

朝鮮清州韓氏のY染色体は、ハプログループO2a2b1a2a1a2(O-F563)である(注1)。これは、清州韓氏の男性複数名から得られたサンプルに基づくものである。清州韓氏の族譜『清州韓氏世譜』によると、韓氏は「箕子朝鮮の最後の王・準王の後代に友誠、友平、友諒の3兄弟がいて、それぞれ箕氏、鮮于氏、韓氏となり、清州韓氏の始祖「韓蘭」は友諒の子孫である」と記載されている(注2)(注3)(注4)。この記載内容が正しければ、朝鮮半島に最初の王朝を開いた箕子のY染色体は、ハプログループO2a2b1a2(O-F444)系統である可能性が高いと言える。1959年、北朝鮮の金日成は「箕子陵」を破壊し、跡地に「牡丹峰青年公園」を造成させた。
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注2)『清州韓氏世譜』(卷之一 上編)に「箕子 子姓名「胥餘」(中略)韓八世稽王 馬韓之末 元王有子三人 曰友平奔高句麗 仕于琉璃王朝 爲北原鮮于氏 曰友誠降百濟 仕于温祚王朝 爲德陽奇氏 以幸州爲本 曰友諒 仕于新羅脱解王朝 爲上黨韓氏 以清州韓氏(韓元王之後世系) 一世 諱友諒(新羅司徒)」とある。
注3)ISOGG Tree(ver.11.316)による表記。原文のISOGG 2014による旧表記では「O3a2c1(O-M134, F444+, F563+, F273-)」である。
注4)『坤輿萬國全圖(版本)』利瑪竇(Matteo Ricci)撰、萬暦30年(1602)、北京

Y染色体ハプログループO2a2b1a2a1a3系統

裴天龍(星山裵氏)

高麗・裴天龍のY染色体は、ハプログループO2a2b1a2a1a3b2b1(O-F4249)である(注1)。これは、星山裵氏の男性複数名から得られたサンプルに基づくものである(注2)。
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星山裵氏は、高麗の太祖・王建を助けて国土統一に貢献した功臣・裴玄慶の五代孫である裴元龍(金海裵氏の始祖)の弟・裴天龍を始祖とする系統。裵氏は朝鮮時代に47人の文科及第者を輩出した。現在、裵氏全体人口の約70~80%を星州裵氏が占めている。裵氏の本貫は10本内外が伝わるが、皆淵源が同じ同源血族である。全ての裵氏は新羅六部村金山加利村(漢祇部)の村長・祇陀公に淵源を置き、高麗の開国功臣・玄慶が慶州裵氏の始祖であると同時に全ての裵氏の始祖である。玄慶の初名は白玉(白玉衫)だったが、後に太祖に裵姓を授かった。

注1)分子人類學論壇『韓國星山裵氏(星州)Geno 2.0 結果:F46+,F2887+,F4249+』(2015.4.13)
注2)ISOGG Tree 2017(ver.12.44)による表記。原文による旧表記では「O3a2c1*(O-M134, subclade-F46+,F2887+,F4249+)」である。

Y染色体ハプログループO2a2b1a2b系統

李成桂(全州李氏)

14世紀に李氏朝鮮王朝を建国した李成桂(1335-1408)のY染色体は、ハプログループO2a2b1a2b(O-F743)である(注1)。李成桂は、朝鮮全羅道完州郡全州を本貫とする全州李氏で、新羅王朝の時に司空を務めた中国出身の李翰を始祖とする(注2)(注3)。李成桂は、高麗王家の王氏一族を巨済島などの島々に幽閉し、1394年4月には、王氏一族を生きたまま海に遺棄・虐殺し、李氏朝鮮を建国した。
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DYS 393 390 19 391 385a 385b 426 388 439 389i 392 389ii
Alleles 12 23 15 10 11 19 11 12 11 12 12 29

注2)『李朝太祖実録』、『完山実録』による。
注3)ISOGG Tree(ver.11.18)による表記。原文のISOGG 2014による旧表記では「O3a2c1*(O-M134*, subclade-F743)」である。

來太郎國行

刀鍛冶・來國行(らい くにゆき)のY染色体は、ハプログループO2a2b1a2b1(O-CTS2272)である(注1)。これは、彼の子孫から得られたサンプルに基づく解析結果である。
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來國行の父、國吉は高麗からの帰化人で、高麗太郎と称した。長男・國行の時に「渡来人」であることから「來」を氏として「來太郎國行」と名乗る。初め高麗の金物細工を業としたが、京都に登り刀工・粟田口の門人となって作刀を学んだ。あるいは父の國吉の時代に刀工となったとも言うが、國吉の作刀と言われる刀は今に伝っていない。よって來國行が、來派の事実上の祖と言われる。
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『観智院本 銘尽』(写本:応永30年の奥書/国立国会図書館所蔵/東寺塔頭観智院旧蔵)の記述に「來系圖、先祖の鍛冶・高麗より來たる」とあり、「國行-國俊-國光」の系譜を載せる。また『喜阿弥本 銘尽』(写本:永徳年間奥書)には、「國行 号来太郎、鍛冶の在所口伝の条々あり。一説に異朝に於いて銅細工人なりけるが、渡朝して鍛冶を習うと云ふ。他國より來るとて「來」の名字を賜ふ。さりながら「來」文字は打たずなり」とある。『往昔抄』には「國吉 高麗國より來る。淳徳院御宇の渡來なり」とある。國行の代表作・「不動國行」は、足利義輝、松永弾正、織田信長、豊臣秀吉へと伝へられた。子の來國俊(孫太郎, 1241-   )も作刀を良くした。



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  • 最終更新:2017-03-03 12:39:22

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