Y染色体O2a2a系統

Y染色体ハプログループO2a2a1a1系統

高麗王・王建

初代高麗王・王建(877-943)のY染色体は、ハプログループO2a2a1a1(O-M188, subclade-CTS201)である(注1)(注2)。弓裔の部下であった王建は、918年に謀反を起し、自ら「高麗人の末裔」と称して国号を「高麗」とし、都を「開城」に定めた。『編年通録』によると王建の始祖は「虎景」という人物で、虎景の孫に「損乎述」があり、損乎述は「宝育」と改名した(国祖)。宝育は姪(兄の娘)の「徳国」を娶り、娘の「辰義」をもうけた。辰義は無名の中国人の行商人との間に「作帝建(懿祖)」を生んだ。作帝建の息子、「竜建(世祖)」は松岳(現在の開城)を拠点に半島西南の海岸部で貿易をしていた豪族で、王建は新羅憲康王3年(877年)1月31日に竜建の息子として生まれたという。この伝承に基づけば、作帝建の父は中国人であることから、王建の父系先祖は、中国人であるといえる。
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DYS 393 390 19 391 385a 385b 426 388 439 389i 392 389ii
Alleles 12 25 17 10 13 20 11 13 11 13 13 30

注1)FTDNA"O Y-Haplogroup-Wang Geon (왕건)"(Kit Number:203845, Wang)
注2)ISOGG Tree(ver.10.116)による表記。原文のISOGG 2014による旧表記では「O3a2b1(O-M188)」である。

Y染色体ハプログループO2a2a1a1b系統

呉延寵(海州呉氏)

高麗・睿宗時代に女真族を討伐した武将で、 高麗吏部尚書・門下侍中平章事を歴任した呉延寵(1055-1116, U Yeonchong)のY染色体は、ハプログループO2a2a1a1b(O-CTS201, subclade-F4010.2, F1531)である(注1)。呉延寵の六世祖・呉仁裕は、もと宋国(中国)の大學士で、成宗3年(984)高麗に帰化し檢校軍器監を務めた人物。子孫が黄海道(海州)に世居して本貫とした。本貫の「海州」は現在の「韓國黄海南道海州市」にあたる。2000年の調査では422,735人。
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      (呉延寵)

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服部保長と服部正成

戦国武将・服部保長のY染色体は、ハプログループO2a2a1a1b(O-CTS201, subclade-F4010.2)である(注1)(注2)。菊岡如幻の『伊水温故』によれば、服部保長の先祖は、漢より渡来した漢服部(あやはとり)の家系で、代々「平内左衛門」という名を世襲した。源平合戦に、平知盛の郎党として武功を挙げた、服部家長(平内左衛門)の直系子孫が服部保長である(注3)。服部保長の四男は、服部半蔵の名で知られる服部正成(1542-1596)である。
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DYS 393 390 19 391 385a 385b 426 388 439 389i 392 389ii
Alleles 12 24 17 10 14 19 11 13 11 12 13 29

注1)FTDNA"JAPAN DNA Project"(Kit Number:204021, Hattori)
注2)FTDNA"JAPAN DNA Project"(Kit Number:N255025, Hattori Hanzo)
注3)「保長の始祖は『新撰姓氏録』などによると、「呉国より渡るを呉服部(くれはとり)といい、漢より渡るを漢服部(あやはとり)といいけり。呉服部は秦姓なり」とあり渡来人という。(中略)服部氏に三流あり、漢服部は平内左衛門相続し(中略)と、菊岡如幻の『伊水温故』にある。平内左衛門とは、伊賀(服部)平内左衛門家長のこと。源平合戦には、権中納言・平知盛(平清盛の四男)の郎党として武功を挙げた。(中略)保長は、この左衛門家長の直系という」『戦国忍者列伝 -乱世を暗躍した66人-』清水昇著

姫路藩士・松原夏蔵と実業家・柳田富士松

先祖が伊賀国出身である播州姫路藩士松原夏蔵のY染色体は、ハプログループO2a2a1a1b(O-CTS201, subclade-F4010.2)である(注1)。これは、松原夏蔵の五世孫の男性から得られた結果に基づくものである(注2)。松原夏蔵は、服部半蔵の男系子孫と言われる家柄(注3)。また、実業家・柳田富士松(1867-1928)も松原夏蔵の男系子孫である為、Y染色体は同じハプログループO2a2a1a1b(O-CTS201, subclade-F4010.2)であることが明らかとなった(注4)。鈴木商店は大東亜戦争以前にあった大商社で、1874年ごろに鈴木岩治郎が神戸で創業した砂糖商に始まるが、その発展は1894年の岩治郎の死後、番頭の金子直吉、柳田富士松によってもたらされた。征台之役の後、鈴木商店は台湾総督府民政長官の後藤新平と結び、1899年の台湾樟脳専売制施行に際しては、樟脳油の一手販売権を獲得、その発展の糸口をつかんだ(注5)(注6)。柳田富士松の二男が太陽鉱工監査役柳田義一(1898-   )、三男・柳田泰蔵(1904-   )、四男・日本金属化学社長柳田彦次(1905-   )、五男・柳田健作(1915-   )である(注7)(注8)。
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      (松原恒七)           (柳田富士松)

注2)松原夏蔵から被験者男性へ連なる系図は「松原夏蔵-松原藤助(1789-1861)-松原恒七(1819-1881)-松原恒雄-松原哲舟-(男性)」となる。
注3)もしくは、服部半蔵と同族の男性の男系子孫の可能性もある。また、被験者男性の母方の祖先は日本最長の刀鍛冶・波平行安に連なる家系を継承している。
注4)白石友治編『柳田富士松傳』(金子柳田両翁頌徳会, 1950)によれば「柳田富士松の傳記を書くには、まずその実父松原恒七(1819-1881)のことから書き起こさなければならない。松原恒七の源を尋ねると徳川時代の中頃(明和年間)播州姫路酒井藩の家中に松原夏蔵という人がいた。身分禄高の程はつまびらかではないが、城下、一丁町の商家多々屋庄蔵の娘ゆうを娶って一子をもうけ藤松と名付けた。誕生の年は寛政元年(1789)である。この人が本稿の主人公柳田富士松の祖父に当たる。「富士松」命名の由縁も此処に起因している。ところが夏蔵は藤松の幼少の頃、かりそめの病が基で身罷ったので、若い後家の「ゆう」は一子、藤松を連れて姫路寺町に住む杉寿庵という藩士で剣道の指南役をしている侍と再婚し、寿庵との間に忠明という一子をもうけた。物心ついてからの藤松は、自分は母「ゆう」の連子であるという肩身の狭い思いをした。また、忠明という杉家の相続人ができてから義父の態度がにわかに変わって、何事につけても藤松につらく当たる。母は両者の間に立って、言うに言えない気兼ねをし、藤松も両親に対する気兼ねに淋しい月日を過ごしてきた。然して16歳の時、藤松は意を決して単身姫路を出発して大坂に出てきた。これは文化元年(1804)の事である。頼って行った先は同郷(姫路)の先輩で、姫路特産の「なめし革細工の煙草入れ」を大坂に持って行って商いをする辰巳屋嘉兵衛という人であった。辰巳屋の商標は「カネ辰」と記したが、これが後年鈴木商店の「カネタツ」の屋号の起源である。場所は心斎橋筋の現在の大丸百貨店の東方で、永く「びっくりぜんざい」という甘党を喜ばす店のあった辺りであるといふ。藤松は名を藤助と改めて、嘉兵衛のもとで忠実に奉公した。数年にしてその忠勤が主人に認められ、藤助は嘉兵衛の次男久兵衛のために南店を道頓堀に開いた時、ぬきんでられてそこの番頭に出世した。当時辰巳屋で売り出されていた煙草入れは、なめし革細工に僅かばかりの金具がついている。主人の嘉兵衛は、「南店で売れた煙草入れの金具の部分の利益は藤助にやる」という約束で、倅の後見役の形で盛り場 道頓堀の新店を任せたのであった。この新店に見習い奉公に来ていた「直(なを)」という女中がいた。(長堀通りの)新町西口の堺屋利兵衛の娘であったが、藤助は主人の許しを得て「直(なを)」と結婚し、店の付近にささやかな家を借りて新世帯を持った。毎日早朝、夫婦は共々「辰巳屋」へ勤めに行く。勤め先の辰巳屋では一は番頭、一は女中で永く夫婦共稼ぎの年月を送った。間も無く長男政七が生まれたが共稼ぎの世帯では未だ子供の養育はおぼつかないので大阪住吉の柳田某(この柳田は本編の柳田とは無関係)に養子にやった。藤助31歳の時(文政2年)次男が生れた。幼名は藤吉、長じて恒七と名乗った人でこれが柳田富士松の実父である。藤吉が幼少の頃のある夏の夕べ、辰巳屋南店の格子戸の外で母の「直(なを)」が主人久兵衛の息子と自分の息子とが仲良く遊んでいるのを見守っていると一人の旅僧が通りかかって、しばらく子供をじっと眺めていたが、ややあって「直(なを)」に向かって「どっちがあんたの子じゃ」と尋ねた。「直(なを)」が汚い装いをしている藤吉を恥ずかしそうに指さして「これが私の子供で、こちらが御主人の坊です」と、奇麗な着物を着ていた主人の子供を指さした。旅僧はおもむろに口を開いて、「さてさてあんたは良い子を持ったものじゃ。この子の顔にはとても出世する立派な相が出ている。それに反してお前さんの主人の子供は気の毒じゃがお前さんの子供に厄介になる相が出ている」と言い捨てて、どこともなく過ぎ去ったという話が残っている。後年この子供達の時代になった時、辰巳屋は没落して旅僧の予言通りの状態になった。藤助は辰巳屋嘉兵衛に奉公して丁度20年目の36歳(文政7年, 1824)の年「辰巳屋」の暖簾を分けてもらって大坂、大宝寺町に新店を開いて独立し、子の恒七が長ずるに及び家督を譲り、万延2年正月24日73歳で殁した。養嗣子に出した長男政七に家督を譲った。次男恒七との他に、はる、まさ、ひさの三女を残した。妻の「直(なを)」はその後永く生きて、明治12年7月2日に亡くなった」とある。
注6)『柳田富士松翁頌徳碑』によれば「柳田富士松翁は、大阪の侠商松原恒七の長男に生まれ姻戚柳田家を嗣ぐ。資性謹直質朴穏健の士也。十九歳の時鈴木商店に入り店主夫妻の薫陶を受く。長ずるに及んで同店砂糖部を担任し店主没後は専ら、よね刀自を助け大いに才腕を振るい商権を拡張して主家発展の基礎を築き、金子翁と共に同店の二大柱石として世に知らる。金子翁の天衣無縫の躍進の影には常に翁の緊密周到の守備があり、終生管鮑の交わりをなし互いに補佐扶掖し克く我が財界に鈴木商店の名を大をなさしめたり。昭和三年二月九日脳溢血のため逝く。享年六十二歳也」とある。
注7)近現代・系図ワールド『鈴木岩次郎・柳田富士松系図
注8)人物特集・鈴木商店のあゆみ『辰巳屋恒七(松原恒七)の人となり

Y染色体ハプログループO2a2a1a2系統

項羽

楚の武将で秦を倒し西楚の覇王と呼ばれた項羽(BC232-BC202)のY染色体は、ハプログループO2a2a1a2(O-M7)である(注1)(注2)。
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注1)分子人類學吧『中國王室皇族Y-DNA單倍群表』(2014.12.5)
注2)ISOGG Tree(ver.11.140)による表記。原文のISOGG 2014による旧表記では「O3a2b*(O-M7)」である。


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  • 最終更新:2018-02-27 08:36:11

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