Y染色体O2a2b系統

Y染色体ハプログループO2a2b1系統

潮汕曾氏

中国・潮汕曾氏のY染色体は、ハプログループO2a2b1*(O-M134*, M117-, subclade-CTS11525)である(注1)(注2)。潮汕曾氏の族譜によると、曾氏の始祖は、「孔子および左丘明の弟子の曾子(本名:曾參, BC505-  )で、子孫は山東より江西へ移住し、更に福建から広東の潮汕へ移住した」と記載されている。
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DYS 393 390 19 391 385a 385b 437 448 439 389i 392
Alleles 12 23 15 10 14 16 15 20 12 13 12

注2)ISOGG Tree(ver.10.116)による表記。原文のISOGG 2014による旧表記では「O3a2c1*(O-M134*, subclade-CTS11525)」である。

王仁

応神天皇の時代、百済を経由して日本に渡来した・王仁(わに)博士のY染色体は、ハプログループO2a2b1(O-M134)であると推定される(注1)(注2)。韓国では応神天皇と同一人物として日本支配の根拠としている。王仁博士の子孫は、西琳寺跡がある河内国古市郡古市郷を本拠地とする西文氏(かわちのふひと)として栄えた。
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注1)松本克己『日本語の系統とその遺伝子的背景』(千葉大学, 2012.11.15)
注2)ISOGG Tree(ver.11.73)による表記に更新。原文の表記では「O3e-M134」である。

新漢人大圀

推古16年(608)に派遣された、第3回遣隋使の学生・新漢人大圀(いまきのあやひとおおくに)のY染色体は、ハプログループO2a2b1(O-M134)であると推定される(注1)(注2)。
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古来より日本は隋と対等な関係を結びたいという強い意思を持っており、その機を熟考していた。当時、隋はたびたび高句麗と合戦をしていたが、隋はそのたびに撃退されたため、日本が高句麗と同盟を結び、隋に敵対してくることを憂慮していた。聖徳太子は、この国際情勢を鑑み、小野妹子を遣隋使として派遣するにあたって、隋と対等な関係を結ぶ好機と捉えて国書を作成。遣隋使のもたらしたこの国書は、隋の煬帝にとっては屈辱的であったが、聖徳太子の緻密な計算どおり、隋はこの対等な関係を示した国書を受け取らざるを得なかった。小野妹子は隋の答礼使として裴世清(はいせいせい)を同行して、翌年帰国した。

注1)松本克己『日本語の系統とその遺伝子的背景』(千葉大学, 2012.11.15)
注2)ISOGG Tree(ver.11.73)による表記に更新。原文の表記では「O3e-M134」である。

世田谷一家殺害事件の容疑者

2000年に東京都世田谷区の一家4人が惨殺された事件の容疑者のY染色体は、ハプログループO2a2b1*(O-M134*)である(注1)(注2)。このハプログループは、日本人では約33人に1人、中国人では約10人に1人、韓国人では比較的多く約5人に1人の割合に見られる(注3)。容疑者の遺留品の中には、韓国でしか販売されていない「スラセンジャー」というメーカーのスニーカー(27.5cm)や、韓国製のヒップバッグも含まれている。世田谷一家殺害事件の容疑者のミトコンドリアDNAはこちらを参照。
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注1)ISOGG Tree(ver.10.116)による表記。原文のISOGG 2002による旧表記では「O3e*(O-M134)」である。
注3)東京、群馬、千葉からサンプリングされた水野論文(2008)のデータでは、「O-M134*」は、33人に1人の割合。約3%である。

Y染色体ハプログループO2a2b1a1系統

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O2a2b1a1系統(O-M117)の分布図


徐福

中国 秦代の方術士・徐福のY染色体は、ハプログループO2a2b1a1(O-M117)であると推定される(注1)。これは、江蘇省の徐氏 男性複数名から得られたデータに基づく(注2)。
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DYS 393 390 19 391 385a 385b 437 448 439 389i 392 458
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司馬遷の『史記』よると、徐福は、斉国の琅邪郡(現 山東省臨沂市)の出身であるが、1982年『中華人民共和國地名辭典』編纂の際に行われた国家的規模の学術調査において、江蘇省連雲港市贛楡県金山鎮にある「徐阜」という村に、徐福にまつわる伝承や遺品が集中して発見された。この村は、少なくとも清朝 乾隆帝の時代より以前から「徐福村」と呼ばれており、徐福自身は「蓬莱郷」と「不老不死の仙薬」を求めて東方へ船出したが、残された親族が、のちに江蘇省へ移り住んだと伝えられている(注3)。一方、日本の和歌山県には、韓人・李梅渓が揮毫し、紀州藩祖・徳川頼宣が建てた「秦 徐福之墓」という墓がある(注4)。

注1)分子人類學論壇『江蘇揚州徐氏O3a3c1,M117+』(2010.6.20)
注2)ISOGG Tree 2017 (ver.12.31)による表記。原文のISOGG 2010による旧表記では「O3a3c1(O-M117)」である。
注3)宮城谷昌光『異色中国短篇傑作大全』 講談社、2001年、146頁、ISBN 4-06-264970-5
注4)東論文化『中国人が日本人の祖先という伝説は史実ではない』(2017.3.30) - 中国では秦の始皇帝の命を受けて不老不死の薬を求めて日本に渡った徐福という人物が日本人の祖先だと信じている人が少なからず存在する。徐福と同じY染色体ハプログループに属する人々が存在することから、徐福が日本に到達していた可能性はゼロではないが、同様の伝承は朝鮮半島にもあるため伝説の域を出ない。徐福と数千人の若い男女が日本人の祖先であるというのは明らかに語弊のある表現だと言えよう。中国メディアの東論文化は2017年3月30日、「中国では徐福と徐福が従えていた若い男女たちが日本人の祖先であると主張する人がいる」と紹介する一方で、「果たしてこの説は本当なのだろうか」と疑問を投げかける記事を掲載した。記事では、徐福とその一行が日本人の祖先であるとする説に対し、Y染色体による分析を示して、特殊な例外を除き、大多数の日本人の祖先は徐福とその一行ではないと論破。分子人類学に基づく人類のY染色体ハプログループで分類すると、日本人はハプログループD1bというY染色体を持つグループが日本に渡り、数万年間、独自の発展を遂げた後、東アジアにルーツを持つハプログループO1bの弥生人と融合共生した民族が日本人であると解析した。さらに、徐福とその一行が日本人の祖先であるならば「日本語に中国語の影響が見られなければならない」と指摘し、漢字は日本でも使用されているが「日本語と中国語の文法はまったく異なる」と説明。Y染色体から見ても、言語面から見ても「紀元前3世紀ごろに不老不死の薬を求めて日本に渡った徐福という人物が日本人の祖先だとする説は正しくない」と伝えた。

李舜臣(徳水李氏)

李氏朝鮮時代の将軍・李舜臣のY染色体は、ハプログループO2a2b1a1(O-M117)である(注1)(注2)(注3)。これは、ソウル特別市出身の徳水李氏の男性から得られたサンプルに基づく(注4)。
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       (李舜臣)          (徳水李氏の男性)
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Alleles 12 23 14 10 14 19 11 10 12 11 14 27

李舜臣は、朝鮮京畿道開豊郡徳水を本貫とする徳水李氏で、高麗の武官(神虎衛中郎将)・李敦守を始祖とする。李敦守は、1218年契丹が高麗に侵入した時、これを防衛して功績があった。また、李氏朝鮮時代の朱子学者・李珥(号:栗谷, 1536-1584)も同じ本貫であるため、李珥のY染色体もハプログループO2a2b1a1(O-M117)であると推定される。

注2)FamilytreeDNA Korea Project의 한 덕수 이씨분의 부계하플로 결과는 O2a2c1a(M117).
注3)ISOGG Tree(ver.11.18)による表記。原文のISOGG 2014による旧表記では「O3a2c1a(O-M117)」である。

ベニグノ・アキノ2世

フィリピンの政治家で大統領国防省顧問ベニグノ・アキノ2世(Benigno Simeon "Ninoy" Aquino, Jr., 1932-1983)のY染色体は、ハプログループO2a2b1a1(O-Page23)であると推定される。これは、アキノ姓のフィリピン人男性から得られたデータに基づくものである(注1)(注2)。ベニグノ・アキノ2世の父は、ベニグノ・アキノ1世(Benigno Aquino, Senior, 1894-1947)、祖父はセビラーノ・アキノ(Servillano Aquino, 1874-1959)である。
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注1)The Genographic Project 2.0 "OUR STORY"
注2)ISOGG Tree(ver.11.18)による表記。原文のISOGG 2014による旧表記では「O3a2c1a(O-Page23)」である。

Y染色体ハプログループO2a2b1a1a系統

秦始皇帝

秦始皇帝のY染色体は、ハプログループO2a2b1a1a(O-M133)であると推定される(注1)(注2)(注3)。
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注1)『探析中華民族的源流』(2007.11.11)
注3)『弥生人の起源』(2011.10.2)

秦河勝

聖徳太子の側近として活躍した秦河勝のY染色体は、ハプログループO2a2b1a1a(O-M133)であると推定される(注1)(注2)(注3)。
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       (秦河勝)
秦河勝の子孫としては、楽家の東儀家、猿楽の始祖観阿弥世阿弥親子、四国の戦国大名の長宗我部元親長宗我部盛親親子などが知られる。
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      (東儀哲三郎)           (世阿弥)           (長宗我部元親)
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注1)『探析中華民族的源流』(2007.11.11)
注3)『弥生人の起源』(2011.10.2)

Y染色体ハプログループO2a2b1a2系統

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O2a2b1a2系統(O-F444)の分布図


北魏・道武帝

北魏の初代皇帝・道武帝(本名:拓跋珪, 371-409)のY染色体は、ハプログループO2a2b1a2(O-F444)である(注1)(注2)。北魏(386-534)は、中国の南北朝時代に鮮卑族の拓跋氏によって建てられた国で、前秦崩壊後に独立し華北を統一して五胡十六国時代を終焉させた。
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注2)分子人類學研究、歴史的迷霧再一次抜开,歴史記載、文化對比與分子人類學證据的碰撞再一次很好地掲示了東亞最“囂張”的一類Y單倍群-O3-M134*(即F444)的來源與擴散的路線圖。(1)鮮卑族來源的后裔Y-DNA測試結果。最近一例Y測試結果落地:根据家族記憶來源于北魏皇室,且姓氏属于北魏皇室后裔姓氏源流,其測試結果果然爲O3-M134*(F444貝塔族)。北魏皇室属于拓跋鮮卑部落(也有人主張拓跋部本是匈奴一支)。而此作者前貼關于海外華人資助的小姓測試結果顕示,來自于東部鮮卑的几支姓氏均爲F444:慕容姓也是F444(來源于慕容鮮卑),宇文氏爲O3a2(没往下游測), 來源于宇文鮮卑,極有可能也是F444。對于這樣姓氏来源純正單一,家族歴史記憶可靠(代代口口相傳的家族記憶比太多造假的家譜更可靠), 一両個様本就够説明問題了:鮮卑族系或許正是漢族以致東亞其他民族中F444成分的最大源頭來源,他們在中國歴史上以及他們的后裔在現代歴史上都扮演了重要角 色。今天O3-M134*約占漢族頻率8%-15%左右。
注3)ISOGG Tree(ver.11.316)による表記。原文のISOGG 2014による旧表記では「O3a2c1(O-M134*, subclade-F444)」である。

任宰範(豊川任氏)

韓国のロック歌手・任宰範(イム・ジェボム/임재범/Yim Jae-beom,1962-   )のY染色体は、ハプログループO2a2b1a2(O-F444)であると推定される(注1)(注2)。これは、豊川任氏の男性複数名から得られたデータに基づく推定結果である(注3)。
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注1)分子人類學論壇『豊川任氏-任宰範 O3-F444』(2013.6.17)
注2)ISOGG Tree 2017(ver.12.31)による表記。原文のISOGG 2013による旧表記では「O3a2c1*(O-M134*, subclade-F444)」である。

崔岷植(全州崔氏)

韓国の俳優・崔岷植(チェ・ミンシク/최민식/Choi Min-sik, 1964-   )のY染色体は、ハプログループO2a2b1a2(O-F444)であると推定される(注1)(注2)。これは、全州崔氏の男性複数名から得られたデータに基づく推定結果である(注3)。
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この結果により、全州崔氏原州崔氏は、O2a2b1a(O-F450/M1667)以前は同一父系に基づく同族であり、慶州崔氏は、別系統であることが明らかとなった。

注1)分子人類學論壇『全州崔氏-崔岷植 O3-F444』(2013.6.17)
注2)ISOGG Tree 2017(ver.12.31)による表記。原文のISOGG 2013による旧表記では「O3a2c1*(O-M134*, subclade-F444)」である。
注3)최민식씨는 한국을 대표하는 연기파 배우입니다. 그는 범죄와의 전쟁이라는 영화에 출연후 한 매체와의 인터뷰에서 경주 최씨 충렬공파의 최익현이라는 캐릭터를 연기를 한 것에 대해 진짜 경주 최씨이냐는 질문에 자신은 전주 최씨라고 밝힌바 있습니다. 저희 카페 올라온 경주 최씨 2분은 O2b와 O2b1a로 밝혀져 있고, 원주 최씨 한분이 M117+, M133+, 그리고 전주 최씨로 추정되는 F444 샘플과 본관을 알수 없는 최씨 한분이 F444로 알려져 있습니다. 그중에 전주 최씨로 추정되는 F444는 양천 허씨분과 17좌위 값이 거의 일치하는 결과가 나타났습니다. 최민식씨는 넘버3, 취화선, 쉬리, 파이란, 올드보이, 범죄와의 전쟁, 신세계 등에서 존재감 넘치는 카리스마 연기로 충무로에서 독보적인 케리어를 쌓아나가고 있습니다.

大山倍達(全州崔氏)

武道家、空手家・大山倍達(おおやま ますたつ, 旧名:崔永宜/최영의, 1922-1994)のY染色体は、ハプログループO2a2b1a2(O-F444)であると推定される(注1)。これは、全州崔氏の男性複数名から得られたデータに基づく推定結果である。
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         (大山倍達)        (大山倍達-壮年期)
大山倍達は、朝鮮全羅北道金堤郡龍池面臥龍里の出身。本貫は全州崔氏(文忠公派)。派祖・崔群玉(文忠公) の八世孫・崔瀁(晩六堂, 1351-1424)の24世孫・崔基百の子が崔承鉉で、承鉉の四男が大山倍達にあたる。崔群玉は、東州(鐵原)崔氏の始祖・崔俊邕(高麗開國功臣三重大匡太師)の子孫と言われる(注2)。大山倍達は、龍池小学校に入学後、ボクシングを始め、1934年、隣村の復興小学校へ転校。1936年、キリスト教系の京城英彰中学校へ進学。京城の下宿で生活しながら、YMCAボクシングクラブで練習を行った。16歳の時、乱闘事件によって退学処分となり、勘当されて釜山へ。空手家・曹寧柱に会い「日本一の軍人になってやる」との志を抱き、渡海して山口県下関へ。さらに京都の協和塾に寝泊まりし、義方会道場で剛柔流空手を知る。1940年4月、山梨県の山梨航空技術学校(現・日本航空高等学校)に入学。1942年、航空学校卒業後、甲府の七澤家に下宿し勉強。大山虎雄と名乗り、陸軍士官学校を受験するも不合格。上京して政治家・辻兼一の書生となり、6月、松濤館道場の船越義珍に師事した。1945年大東亜戦争の終戦時、倍達は厚木航空基地で、航空機整備兵として奉職していたが、基地内では日本の降伏を受け入れない兵士たちが「降伏反対運動」を行っていた。倍達もこの運動に精力的に参加し、「アメリカより押し付けられた新憲法(日本国憲法)の改正」を目的とする運動に身を投じた。倍達の兄・崔永範の語るところによると「当時、ほとんどの朝鮮人は日本が戦争に勝つ事を確信し願っていた」。また「教育が遅れていた朝鮮に日本がたくさんの学校を作ってくれた。日本語を強制されたことは無い。むしろ日本人教師は懸命にハングルを学んでいた」という。1947年に京都で開催された戦後初の空手道選手権で倍達は優勝。1952年、プロ柔道の遠藤幸吉四段と渡米。全米各地で在米のプロレスラー「グレート東郷」の兄弟という設定で空手のデモンストレーションを行いながら、プロレスラーやプロボクサーと対決した。帰国後大山は、牛を素手で倒し(合計47頭、うち4頭は即死)、その映像は映画『猛牛と戦う空手』1954年として公開された。1964年、国際空手道連盟極真会館を設立し、数々の名だたる弟子・名選手を輩出している。多くのフルコンタクト系各流派を生み出す元ともなった。

崔承鉉(全州崔氏)

大山倍達の父・崔承鉉(1894-1979)は、身長6尺を超える恵まれた体格を持ち、豪放でありながら誠実な人格で人望が厚く、1923年29歳の若さで龍池面長(村長)となった人物。承鉉は、幼くして聡明。はじめ石亭李定稷先生に師事して文を学び、先生が亡くなると裕齋宋基冕先生に師事し学を修めた。「学問は単なる知識の蓄積ではなく実践してこそ価値を表す」との信念を持ち、貧しい人々があれば稲を授け、病人を助けようと医学(漢方)を学んだ。面長(村長)となってからも苦難の連続で、旱魃に何年も悩まされ、堤防を築いて治水をすること13箇所。郡農會分區長をつとめ、福利厚生の整備にも力を注ぎ、龍池面普通學校設立推進期成會を組織し、また推されて農村振興會長、芙蓉學校學務委員、金堤鄕校掌議を歴任した。1935年には、漢諺混交文で書かれた『自力更生の感覺』という本を出版し啓蒙活動を行った。1945年大東亜戦争の終戦後の混乱期も面長(村長)を務め、戦後復興に尽力。全州崔氏宗族会の総代を務め、『全州崔氏大同譜』、『全州崔氏派譜』、『全州崔氏家乘』などの族譜を編纂、計5回刊行した。日本融和時代から計画してきた「臥龍駅」の誘致に尽力し、遂に完成されるや政界を引退して余生を過ごした。崔承鉉は、金寧金氏(名:芙容)を妻として、逸雲永命永範永宜永定永宗の6男と1女を生んだ。崔永宜が日本に帰化して大山倍達と名乗った(注2)。

注2)『全州崔氏大同譜』、『全州崔氏派譜』、『全州崔氏家乘』

金玉均(新安東金氏)

韓国・新安東金氏のY染色体は、ハプログループO2a2b1a2(O-F444)である(注1)(注2)。これは、新安東金氏の男性から得られたサンプルに基づく(注3)。新安東金氏の始祖・金宣平(김선평)は、王建の高麗建国に際し尽力。のち功労を認められて「開国功臣」とされ安東に領地を賜った人物。
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      (金玉均)        (新安東金氏の男性)
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金玉均は、福澤諭吉の支援を受け、日本の明治維新を模範として朝鮮の近代化と、清朝からの独立を目指した金玉均は、この新安東金氏の出身である。金玉均は、閔氏政権打倒を目指して甲申事変を決起するが敗れて日本に亡命した。その後、再起をはかろうと上海へ渡るが閔妃の刺客・洪鐘宇の手に掛り暗殺された。

注1)The Genographic Project 2.0 "OUR STORY"
注2)ISOGG Tree(ver.12.148)による表記。原文のISOGG 2014による旧表記では「O3a2c1*(O-F444)」である。

趙治勳(豊穣趙氏)

二十五世本因坊・趙治勳(ちょう ちくん/조치훈/Jo Chihun, 1956-   )のY染色体は、ハプログループO2a2b1a2(O-F444)であると推定される(注1)。これは、豊穣趙氏の男性複数名から得られたデータに基づく推定結果である。
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注1)分子人類學論壇『豊穣趙氏-趙治勳 O3-F444』(2013.6.17)
注2)ISOGG Tree 2017(ver.12.31)による表記。原文のISOGG 2013による旧表記では「O3a2c1*(O-M134*, subclade-F444)」である。

Y染色体ハプログループO2a2b1a2a1a2系統

箕子(清州韓氏)

朝鮮清州韓氏のY染色体は、ハプログループO2a2b1a2a1a2(O-F563)である(注1)。これは、清州韓氏の男性複数名から得られたサンプルに基づくものである(注5)。清州韓氏の族譜『清州韓氏世譜』によると、韓氏は「箕子朝鮮の最後の王・準王の後代に友誠、友平、友諒の3兄弟がいて、それぞれ箕氏、鮮于氏、韓氏となり、清州韓氏の始祖「韓蘭」は友諒の子孫である」と記載されている(注2)(注3)(注4)。この記載内容が正しければ、朝鮮半島に最初の王朝を開いた箕子のY染色体は、ハプログループO2a2b1a2(O-F444)系統である可能性が高いと言える。1959年、北朝鮮の金日成は「箕子陵」を破壊し、跡地に「牡丹峰青年公園」を造成させた。
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注2)『清州韓氏世譜』(卷之一 上編)に「箕子 子姓名「胥餘」(中略)韓八世稽王 馬韓之末 元王有子三人 曰友平奔高句麗 仕于琉璃王朝 爲北原鮮于氏 曰友誠降百濟 仕于温祚王朝 爲德陽奇氏 以幸州爲本 曰友諒 仕于新羅脱解王朝 爲上黨韓氏 以清州韓氏(韓元王之後世系) 一世 諱友諒(新羅司徒)」とある。
注3)ISOGG Tree(ver.11.316)による表記。原文のISOGG 2014による旧表記では「O3a2c1(O-M134, F444+, F563+, F273-)」である。
注4)『坤輿萬國全圖(版本)』利瑪竇(Matteo Ricci)撰、萬暦30年(1602)、北京

Y染色体ハプログループO2a2b1a2a1a3系統

裵天龍(星山裵氏)

高麗・裵天龍のY染色体は、ハプログループO2a2b1a2a1a3b2b1(O-F4249)である(注1)。これは、星山裵氏の男性複数名から得られたサンプルに基づくものである(注2)。
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星山裵氏は、高麗の太祖・王建を助けて国土統一に貢献した功臣・裵玄慶の五代孫である裵元龍(金海裵氏の始祖)の弟・裵天龍を始祖とする系統。裵氏は朝鮮時代に47人の文科及第者を輩出した。現在、裵氏全体人口の約70~80%を星州裵氏が占めている。裵氏の本貫は10本内外が伝わるが、皆淵源が同じ同源血族である。全ての裵氏は新羅六部村金山加利村(漢祇部)の村長・祇陀公に淵源を置き、高麗の開国功臣・玄慶が慶州裵氏の始祖であると同時に全ての裵氏の始祖である。玄慶の初名は白玉(白玉衫)だったが、後に太祖に裵姓を授かった。

注1)分子人類學論壇『韓國星山裵氏(星州)Geno 2.0 結果:F46+,F2887+,F4249+』(2015.4.13)
注2)ISOGG Tree 2017(ver.12.44)による表記。原文による旧表記では「O3a2c1*(O-M134, subclade-F46+,F2887+,F4249+)」である。

裵勇浚

韓国の俳優・裵勇浚(Bae Yong-joon/ペ・ヨンジュン/배용준, 1972-  )のY染色体は、ハプログループO2a2b1a2a1a3b2b1(O-F4249)であると推定される(注1)。これは、星山裵氏の男性複数名から得られたサンプルに基づく(注2)。
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裵勇浚は、「ヨン様(Yong-summer)」の愛称で知られる韓国を代表する大スターである。

注1)分子人類學論壇『韓國星山裵氏(星州)Geno 2.0 結果:F46+,F2887+,F4249+』(2015.4.13)
注2)ISOGG Tree 2017(ver.12.44)による表記。原文による旧表記では「O3a2c1*(O-M134, subclade-F46+,F2887+,F4249+)」である。

Y染色体ハプログループO2a2b1a2b系統

李成桂(全州李氏)

14世紀に李氏朝鮮王朝を建国した李成桂(1335-1408)のY染色体は、ハプログループO2a2b1a2b(O-F743)である(注1)。李成桂は、朝鮮全羅道完州郡全州を本貫とする全州李氏で、新羅王朝の時に司空を務めた中国出身の李翰を始祖とする(注2)(注3)。李成桂は、高麗王家の王氏一族を巨済島などの島々に幽閉し、1394年4月には、王氏一族を生きたまま海に遺棄・虐殺し、李氏朝鮮を建国した。
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DYS 393 390 19 391 385a 385b 426 388 439 389i 392 389ii
Alleles 12 23 15 10 11 19 11 12 11 12 12 29

注2)『李朝太祖実録』、『完山実録』による。
注3)ISOGG Tree(ver.11.18)による表記。原文のISOGG 2014による旧表記では「O3a2c1*(O-M134*, subclade-F743)」である。

大韓帝国 初代皇帝・光武帝

大韓帝国 初代皇帝・光武帝(Emperor Gwangmu/광무 태황제, 1852-1919)のY染色体は、ハプログループO2a2b1a2b(O-F743)である(注1)。
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(プロイセン式ピッケルハウベ兜(Pickelhaube)が、大韓帝国軍衣に採用せられ、御自らお召しになられる光武帝陛下)


來太郎國行

刀鍛冶・來國行(らい くにゆき)のY染色体は、ハプログループO2a2b1a2b1(O-CTS2272)である(注1)。これは、彼の子孫から得られたサンプルに基づく解析結果である。
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DYS 393 390 19 391 385a 385b 426 388 439 389i 392 389ii
Alleles 12 23 15 10 11 19 11 12 11 12 12 30

來國行の父、國吉は高麗からの帰化人で、高麗太郎と称した。長男・國行の時に「渡来人」であることから「來」を氏として「來太郎國行」と名乗る。初め高麗の金物細工を業としたが、京都に登り刀工・粟田口の門人となって作刀を学んだ。あるいは父の國吉の時代に刀工となったとも言うが、國吉の作刀と言われる刀は今に伝っていない。よって來國行が、來派の事実上の祖と言われる。
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『観智院本 銘尽』(写本:応永30年の奥書/国立国会図書館所蔵/東寺塔頭観智院旧蔵)の記述に「來系圖、先祖の鍛冶・高麗より來たる」とあり、「國行-國俊-國光」の系譜を載せる。また『喜阿弥本 銘尽』(写本:永徳年間奥書)には、「國行 号来太郎、鍛冶の在所口伝の条々あり。一説に異朝に於いて銅細工人なりけるが、渡朝して鍛冶を習うと云ふ。他國より來るとて「來」の名字を賜ふ。さりながら「來」文字は打たずなり」とある。『往昔抄』には「國吉 高麗國より來る。淳徳院御宇の渡來なり」とある。國行の代表作・「不動國行」は、足利義輝、松永弾正、織田信長、豊臣秀吉へと伝へられた。子の來國俊(孫太郎, 1241-   )も作刀を良くした。



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  • 最終更新:2017-06-29 09:32:09

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