Y染色体O1b2a1a系統

Y染色体ハプログループO1b2a1a系統 【弥生系】

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O1b2a1a(O-F1204)系統の分布図


天児屋根命

天児屋根命(Amenokoyane-no-mikoto)のY染色体は、ハプログループO1b2a1a(O-F1204)であると推定される。これは、天児屋根命の子孫1名から得られたサンプルの解析結果などによるものである(注1)(注2)。天児屋根命の墓(児屋根塚古墳)は、国の史跡に指定されている(注3)(注4)(注5)。
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DYS 393 390 19 391 385a 385b 426 388 439 389i 392 389ii
Alleles 12 22 15 10 10 18 11 12 12 14 13 30

ヒエログリフとの対応

アメン(Amen、古代ギリシア語: Ἄμμων, Ἅμμων、Ámmōn, Hámmōn)は、古代エジプトの太陽神を示し、アモン(Ammon)、アムン(Amun)とも表記され、またその名は「隠されたもの」を意味する。天児屋根命(Amenokoyane-no-mikoto)は、太陽神が天岩戸に隠れた時に祝詞を奏上し、世界が再び光を取り戻すのに貢献したと言われる(注7)。

注1)FTDNA"Dna of Amenokoyane"
注2)Ysearch"FUJIWARA clan's dna"
注4)ISOGG Tree 2017(ver.12.228)による表記。原文のISOGG 2014による旧表記では「O2b1a(O-47z, subclade-CTS10145)」であるが、これは子孫から得られたデータによるため、実際には一段階遡った「O-F1204」であったと推定される。

宇佐津臣命

宇佐津臣命のY染色体は、ハプログループO1b2a1a1(O-CTS11723)である(注1)(注2)。これは、宇佐津臣命の男系子孫から得られたサンプルの解析結果に基づく。
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picture from Wikipedia
宇佐津臣命は、父が天種子命(天多祢伎命)、母が宇佐津姫命と言われる(注3)。


阿武山古墳の被葬者

阿武山古墳の被葬者のY染色体は、ハプログループO1b2a1a1(O-CTS10145, CTS11723)である(注1)(注2)。
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DYS 393 390 19 391 385a 385b 426 388 439 389i 392 389ii
Alleles 13 22 15 10 10 20 11 12 12 14 13 30

DYS 458 459a 459b 455 454 447 437 448 449 464i 464ii
Alleles 19 10 10 11 11 25 14 18 30 13 15

阿武山古墳は、阿武山(標高281.1m)の山腹の大阪府高槻市奈佐原から、茨木市安威に跨った地域に位置し、昭和初期に地下から古代の貴人の埋葬遺体が発掘された。現在は国の史跡に指定されている(注3)(注4)。

注2)Ysearch"DNA of Fujiwara clan"
注3)文化庁『阿武山古墳』(国指定文化財データベース)
注4)阿武山古墳は、1934年に京都大学の地震観測施設の建設中に、土を掘り下げていて瓦や巨石につきあたったことから偶然に発見された古墳。浅い溝で直径約82mの円形の墓域が形成されていた。墓室は墓域中心の地表のすぐ下にあり、切石で組まれて内側を漆喰で塗り固められており、上を瓦で覆われ地表と同じ高さになるように埋め戻されていた。内部には棺台があり、その上に漆で布を何層にも固めて作られ外を黒漆・内部を赤漆で塗られた「夾紵棺(きょうちょかん)」が日本で初めて発見された。棺の中には、60歳前後の男性の、肉や毛髪、衣装も残存した状態のミイラ化した遺骨がほぼ完全に残っており、鏡や剣、玉などは副葬されていなかったが、ガラス玉を編んで作った玉枕のほか、遺体が錦を身にまとっていたこと、胸から顔面、頭にかけて金の糸がたくさん散らばっていたことが確かめられている。

藤原清衡

平安時代後期の武将で、平泉に中尊寺を開基した奥州藤原氏の祖・藤原清衡(Fujiwara no Kiyohira, 1056-1128)のY染色体は、ハプログループO1b2a1a1(O-CTS10145, CTS11723)である(注1)。これは、奥州藤原氏四代のミイラに対する骨格の調査や、子孫複数名から得られたサンプルの解析結果などによる(注2)。藤原清衡の血液型はAB型。
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            (藤原清衡)

DYS 393 390 19 391 385a 385b 426 388 439 389i 392 389ii
Alleles 13 22 15 10 10 20 11 12 12 14 13 30

DYS 458 437 448 Y-GATA-H4 456 438 635        
Alleles 18 14 18 12 15 13 20        

奥州藤原氏は、藤原清衡(1056-1128)を初代として、二代藤原基衡(  -1157)、三代藤原秀衡(  -1187)、四代藤原泰衡(  -1189)と続き栄華を極めた。

奥州藤原氏が藤原氏と無関係であるという誤解について

『日本の苗字七千傑(注3)』という個人サイトによれば、後漢霊帝の末裔で、応神天皇の時代日本に帰化した阿知使主の子孫にあたる坂上田村麿のさらに子孫が、奥州藤原氏の開祖・藤原清衡の祖父である藤原頼遠で、この藤原頼遠は藤原正頼の婿養子となって藤原姓を継いだかのような説を載せるが、姓氏調査の基本図書のひとつで、南北朝時代から室町時代初期に洞院公定の撰によって完成した『尊卑分脈』(注4)や、塙保己一が古書の散逸を危惧し江戸幕府や諸大名・寺社・公家などの協力を得て、収集・編纂した『群書類従系図部集』(注5)などの信頼できる一次史料には、奥州藤原氏が坂上氏からの養子をむかえたという記載は一切なく男系男子が連綿と家系を相続している(注6)(注7)。

注2)"Kiyohira Fujiwara's dna"(Ysearch)
注4)『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第2篇』吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編修会(編)ISBN 4642003630、386-387頁、藤原頼遠の項目参照。
注5)『群書系図部集 第5』塙保己一続群書類従完成会(編)、125頁、藤原秀郷流「結城系図」藤原頼遠の項目参照。
注6)『尊卑分脈』では、藤原頼遠の項目の注記は「下総國住人 五郡太大夫(異本 五郎大夫)」とあり、『群書系図部集 第5』では、藤原頼遠の項目の注記は「五郎」とあるのみである。
注7)ISOGG Tree(ver.11.70)による表記。原文のISOGG 2014による旧表記では「O2b1a(O-47z, subclade-CTS10145)」である。

上田晋也

芸能人・上田晋也(Shin-ya Ueda, 1970-   )のY染色体は、ハプログループO1b(O-M268)である。上田晋也は、熊本県熊本市南区の出身(注1)。上田晋也のミトコンドリアDNAはこちらを参照。
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       (上田晋也)

上田晋也との系譜関係は明瞭ではないが、肥後上田氏は、肥後国球磨郡(現 熊本県人吉市)を本拠とする、藤原為憲流の相良氏の一族。相良氏は、藤原周頼が遠江国相良(現 静岡県牧之原市相良)を領して相良氏を称したのに始まる。相良氏は鎌倉幕府の御家人となり、肥後国多良木の地を与えられて肥後国に転じた。その後、相良家の一族が肥後国人吉荘の地頭となり、多良木の上相良と人吉の下相良に別れた。戦国時代には下相良家が勢力を拡大し、江戸時代には肥後国人吉藩主2万2千石を有している(注3)。肥後上田氏は相良氏の支流にあたる為、この系譜が正しければ上田氏のY染色体は、ハプログループO1b2a1a1(O-CTS713, CTS11723)である可能性が高いと推定される(注4)。

注2)ISOGG Tree 2017(ver.12.228)による表記。原文のISOGG 2011による旧表記では「O2(O-M268)」である。
注3)名前の由来『肥後上田氏』(2016.8.19)
注4)藤原為憲流の相良氏の一族であったとする前提に基づく。

厚地呂比奈

厚地呂比奈(Sir Robina Atsuchi)のY染色体は、ハプログループO1b2a1a1(O-CTS11723)である(注1)(注2)(注3)。厚地氏は、もと下野国の出身で藤姓宇都宮氏の分流。のち薩摩国日置郡厚地村を領して厚地氏を称し、一族繁栄して日向国(現 宮崎県)へ移住した。

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DYS 393 390 19 391 385a 385b 426 388 439 389i 392 389ii
Alleles 13 22 15 10 10 20 11 12 12 14 13 30

注1)FTDNA"JAPAN DNA Project - Y-DNA"(Kit Number:N109688, Atsuchi)
注2)FTDNA"O Y-Haplogroup - Y-DNA"(Kit Number:N109688, Atsuchi)
注3)qudro.blog"FamilyTreeDNA Y O2b1a-CTS11723, mtDNA D4a1"(2016.10.16)


申叔舟(実質上のハングルの作者の一人)

朝鮮・世宗の時代、『訓民正音』の創製に貢献し、博学で日本や琉球の地理・歴史・官職・社会制度にも詳しく『海東諸國紀』を著した申叔舟(1417-1475)のY染色体は、ハプログループO1b2a1a1(O-CTS10145, CTS11723)である(注1)。これは、宜寧申氏の子孫・トニー・シン(Tony Shin)ら複数名(注7)から得られたデータに基づくものである(注2)(注3)。O1b2a1a1(O-CTS10145, CTS11723)系統は、朝鮮半島では少なく、日本列島に多くみられる系統であるが、申叔舟の本貫である高靈申氏に限っては顕著にみられる(注4)。
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        (申叔舟)

DYS 393 390 19 391 385a 385b 426 388 439 389i 392 389ii
Alleles 13 22 15 10 10 20 11 12 12 14 13 30

日本の仮名文字(カタカナ/ひらがな)より600年遅れて、パスパ文字、契丹文字を基にして作られた朝鮮の「諺文(韓字/ハングル)」は、 現在の韓国では公式には「諺文(ハングル)を定義した『訓民正音』は世宗王 一人の著作物である」とされている。しかし、実際には同書の「後序」で鄭麟趾が名前を挙げている集賢殿の学士たちの作成であるとの見方が強く、申叔舟もその一人に含まれている。『訓民正音』と対になっている『東国正韻』の序文は申叔舟が書いており、これらの作業の中心的人物であったことが窺える。 申叔舟が、1471年に著した『海東諸國紀』の日本の国俗の説明文には「男女となく皆その国字を習う。国字は『かたかな』と号す」と書かれている点からカタカナの字形がハングルに与えた影響が注目される。 彼は世祖のときに始まり成宗の代で完成した『経国大典』の編纂にもかかわっている。 また申叔舟は、その死にのぞんで成宗に「願わくば日本との和を失うなかれ」との名言を遺した。
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申叔舟の先祖は、族譜によれば、もと新羅(注5)の公族(貴族)の後裔で、高麗王朝の時に地方に下り安逸戸長を務めていたといわれる。高麗王・第23代高宗(在位:1213-1259)の時、申成用(注6)が、文科に及第して正四品・檢校軍器監に任ぜられた。 高靈申氏の始祖・申成用の墓は慶尚北道高靈郡雙林面山州洞萬代山酉坐にある。これにより、子孫は「高靈(現 慶尚北道南西部)」を本貫として世居し優れた人材を多く輩出した。申叔舟もその一人である。申氏の本貫のある「高靈」はかつて、日本の領土のあった任那の「加羅」地域にあたる。

注3)Y-STR values by subgroups of O2b1a-47z; Y-STR of O2b1a samples(Y Haplogroup:O2b1a-47z, MT Haplogroup:D4a1-10410C*, FTDNA/Geno2.0 kit number:FTDNA 267024, Race:South Korean, Family Hometown:Kyeongsangnam-do(慶尚南道), Last name:Goryeong(高靈) Shin(申氏))
注4)申叔舟は日本への渡航経験もあり日本文化に精通してる学者と見られていたが、子孫らによるDNA鑑定の結果、申叔舟は日本人の子孫であった可能性が濃厚で、申叔舟自身が実際は日本人であった可能性も浮上している。
注5)『三國史記(新羅本紀)』には、新羅第4代王・昔脱解が倭國から渡來してきたこと記載している。また、韓國高等学校の教科書である『國史』には「新羅は、辰韓の小國のひとつである斯盧國から起こり、慶州地域の土着民集團と、外國からの移民集團とが結合して建國された。その後、倭國から渡來してきた昔脱解らの集團が王位について、朴・昔・金の3姓が交代で王位についた」とある。

Y染色体ハプログループO1b2a1a2系統 【弥生系】

記憶喪失

人気ブロガー、読書家・記憶喪失(Soshitsu Kioku, 筆名:つおるあ, 1977-  )のY染色体は、ハプログループO1b2a1a2(O-F2868, L682-)である(注1)(注2)(注3)。記憶喪失は、名古屋市立大学経済学部卒業。経済学をはじめ多岐な分野への考察を、ブログやNet掲示板を通して日々発信している。血液型はB型。
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犬塚氏は、三河国幡豆郡犬塚村に発する桓武平氏良文流の氏族が著名であるが、記憶喪失(つおるあ)は、田道間守の一族で児島流の犬塚氏の血統ではないかと考えられている(注4)(注5)。児島高徳は『太平記』の実質的な作者と言われ、子孫の瀧澤興邦(児島偆庵の息子?)は『南総里見八犬伝』などを著したと言われる(注6)。記憶喪失は愛知県岡崎市の出身で、安兵衛の子、勘左衛門を初代として江戸時代中期に分流した家柄。以降、第二代・勘右衛門、第三代・勘右衛門と相続し、第四代・勘次郎の時に明治維新をむかえた。第五代・勘士郎は株取引で成功をおさめ、第六代・稔は大東亜戦争に応召出征。記憶喪失の父が第七代、兄が第八代当主にあたる。この流派は、第六代・犬塚稔が本田氏から入った婿養子であるため、六代目以降は生物学的には本田氏のY染色体ハプログループを継承していることになる。そのため、現在 犬塚家のY染色体にO1b2a1a2(O-F2868)が継承されている理由として「過去に犬塚家から本田家へ養子に行った人物がいて、その本田家から子孫が犬塚家へ養子へ入った(戻った)」などの特別な経緯がないと「児島系犬塚氏説」は成立しないのではないかとの意見も聞かれる(注5)。

注3)ISOGG Tree(ver.11.70)による表記。原文のISOGG 2014による旧表記では「O2b*(O-M176*, subclade-F2868)」である。
注4)『I氏のルーツを追う』(2011.5.29)
注5)千鹿野茂編『家紋でたどるあなたの家系』、305頁に「桓武平氏良文流 I氏・三河国幡豆郡I村に住み、千葉氏を改め、I氏を称す。(『寛政譜』)」とある。
注6)定説では瀧澤家の祖先は、最上義光の家臣・瀧澤覚傳である。覚傳の孫の興也は川越藩主松平信綱に仕え、信綱の四男・松平堅綱が1000石の旗本となるとその家老となった。興也は間中家から興吉を養子に迎え、興吉の子が馬琴の父・興義で、馬琴は、寛政10年(1798)に長兄・興旨が死亡して兄弟のうちただひとりが残されたことで、「瀧澤家」の歴史とその再興を強く意識するようになり、瀧澤家の家譜を調べ、瀧澤一族と自らの歴史を記録した『吾仏乃記』を、文政5年(1820)に書き上げた。一方、勝海舟は『氷川清話』で、馬琴は児島偆庵という医者の息子で『太平記』を書いた児島高徳と同じ児島一族の出身であるという説を唱えている。

Y染色体ハプログループO1b2a1a2a1系統 【弥生系】

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O1b2a1a2a系統の分布図


兪三宰

新羅 杞溪兪氏の始祖・兪三宰(Yoo Sam-Jae/유삼재)のY染色体は、ハプログループO1b2a1a2a1(O-L682, CTS2734, subclade-CTS723, CTS7620-)である(注1)。旧新羅国である慶尚道地方は歴史的には倭の領地であったため、倭人の子孫が多いと言われる。
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注1)FTDNA"O1+O2 Y-DNA haplogroup"(Kit Number:260961, Yoo)

兪鎮午

大韓民国憲法の起草者・兪鎮午(Yu Chingo/유진오, 1906-1987)のY染色体は、ハプログループO1b2a1a2a1(O-L682, CTS2734, subclade-CTS723, CTS7620-)であると推定される(注1)。旧新羅国である慶尚道地方は歴史的には倭の領地であったため、倭人の子孫が多いと言われる。
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兪鎮午は、京城帝国大学法文学部法学科を卒業。昭和14年(1939)、朝鮮文人協会が組織されると、大東亜戦争法科科長となり、昭和18年(1943)、『兵役は大きな力だ!(병역은 큰 힘이다!)』を朝鮮総督府の機関紙「毎日新報」に書いて朝鮮人学徒志願兵を奨励。昭和19年(1944)には「新時代」に『我等は必ず勝つ!!』を発表した。戦後は、大韓民国国会専門委員として『大韓民国憲法』と『政府組織法』を起草。高麗大学校総長、学術院終身会員、新民党代表最高委員を歴任し、文化勲章を受章。昭和42年(1967)、第7回総選挙で鍾路区から立候補して当選、国会議員を務めた。

注1)FTDNA"O1+O2 Y-DNA haplogroup"(Kit Number:260961, Yoo)

Y染色体ハプログループO1b2a1a2a1a系統 【弥生系】

天日槍命

新羅の王子で、王位を弟の知古王に譲って日本に渡来した、天日槍命(Amenohiboko-no-mikoto)のY染色体は、ハプログループO1b2a1a2a1a(O-CTS7620)であると推定される(注1)。これは彼の子孫から得られたデータに基づく。
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picture from Wikipedia
『古事記』によれば、三韓征伐を行なった神功皇后の母方の父系祖先が天日槍命にあたる。高句麗の『広開土王碑』によれば、三韓征伐は辛卯391年で、この年、日本は海を渡って百済を攻め服属し、また新羅も攻めた。新羅はこの時代、第17代・奈勿王の時代にあたる。韓国の歴史書・『三國史記』『三國遺事』によれば、さらに第18代・實聖王(金氏王統)の壬寅(402年)には、新羅は日本に臣従を誓い、實聖王は、日本の求めに応じて、第17代・奈勿王の三男・未斯欣(微叱許智伐旱岐/みしこちはかんき/美海)を人質として日本へ送っている。これについて、『三國史記』、『三國遺事』は、「かつて奈勿王の時代、實聖王は人質として高句麗に送られたことがあり、その仕返しに奈勿王の王子を日本へ人質に送った」と記載している(注2)。實聖王の母は、新羅の倭人王統である昔氏の登也阿干(とやあか)の娘・礼生夫人である。また、奈勿王の二男・卜好(寳海)は、高句麗に人質として送られている。

その後、奈勿王の子で第19代・訥祇王は、朴堤上(363-419)に命じ弟・未斯欣の奪還を謀り、418年、朴堤上は新羅王の使者として日本へ赴いた。日本側の記録では、「汗礼斯伐(うれしほつ)、毛麻利叱智(もまりしち/朴堤上)、富羅母智(ほらもち)等が新羅から派遣され、人質として日本に渡っていた未斯欣の妻子が奴婢に落されたので、真偽を確かめ妻子を助ける為、未斯欣を一時、帰国させて欲しいと嘆願してきた。神功皇后は、これを深く憐れんでこの申し出を受け入れ、警護に葛城襲津彦を付けて新羅に送り出した。ところが新羅の使者と名乗っていた者たちは、人質を奪還する為の虚偽であったことが対馬で判明。未斯欣は小舟で海を渡って逃亡した。怒った襲津彦は、毛麻利叱智(朴堤上)ら三人の使者を焼き殺し、蹈鞴津(たたらのつ, 現 釜山南の多大浦)に上陸し、草羅城(くさわらのさし, 現 韓国慶尚南道梁山)を攻撃して捕虜を連れ帰った」と記載され、新羅側の記録でも「謀略が露見し未斯欣は逃亡して新羅に帰ったが、朴堤上(毛麻利叱智)らの使者は捕まり焼き殺された」と記載されている(注3)。

注2)『三國史記』「先是實聖王元年(402年)壬寅、與倭國講和倭王請以奈勿王之子未斯欣爲質。王嘗恨奈勿王使己質於高句麗思有以釋憾於其子故不拒而遣之」
注3)『日本書紀』では、「毛麻利叱智」、『三國史記』では「朴堤上」、『三國遺事』では「金堤上」と同一人物の名が異なり、記載内容の脚色も異なるが、「新羅が王子を日本へ差し出し、王が代替わりしてから、使者が王子を奪還に来て、王子は新羅に帰れたが、使者は捕まえられて焼き殺された」と言う内容は全く同じである為、史実であろうことは明白である。

田道間守

日本に橘(柑橘類/蜜柑)をもたらした忠臣・田道間守(Tajimamori)のY染色体は、ハプログループO1b2a1a2a1a(O-CTS7620)であると推定される(注1)。これは彼の子孫から得られたデータに基づく。
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         (田道間守)
田道間守は、垂仁天皇の命により「非時香菓(ときじくのかくのみ)」、すなわち現代で言うところの「橘(柑橘類)」を求める為に海外へ派遣された。田道間守は、艱難辛苦の末にようやく「非時香菓」8竿8縵(やほこやかげ:竿・縵は助数詞で、葉をとった8枝・葉のついた8枝の意味)を持って帰国したが、垂仁天皇はその前年に崩御されてしまったこと知り、皇陵の御前に拝し、嘆き悲しんで殉死した。田道間守の遠祖は、新羅の王子・天日槍命(Amenohiboko-no-mikoto)といわれる。


児島高徳

南朝の忠臣で『太平記』の作者と言われる児島高徳(Takanori Kojima, 1312-1382)のY染色体は、ハプログループO1b2a1a2a1a(O-CTS7620)である(注1)。これは彼の子孫ら複数名から得られたデータに基づく。
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         (児島高徳)        (三宅久之)
児島高徳は、備前国児島郡林村(現・岡山県倉敷市林)出身。元弘元年(1331)の元弘の乱以降、後醍醐天皇に対して忠勤を励み、桜の木に刻んでその意を天皇へお伝え申し上げた「天莫空勾践、時非無范蠡(天、勾践(こうせん)を空(むな)しゅうする莫(なか)れ。時に范蠡(はんれい)無きにしも非(あら)ず)」の詩(桜樹題詩)は文部省唱歌ともなり著名。高徳は南北朝分裂後も終始一貫して南朝に仕え、晩年は出家して小嶋法師(志純義晴大徳位)と号した。政治評論家の三宅久之(Hisayuki Miyake, 1930-2012)は、児島高徳の子孫と言われる。

注1)FTDNA"O1+O2 Y-DNA haplogroup - Y-DNA SNP"(Kojima/Miyake)
注2)『児島高徳』作詞不詳・岡野貞一作曲/文部省唱歌「船坂山(ふなさかやま)や杉坂(すぎさか)と、御(み)あと慕いて院の庄(いんのしょう)。微衷(びちゅう)をいかで聞こえんと、桜の幹に十字の詩。天(てん)勾践(こうせん)を空(むな)しゅうする莫(なか)れ、時(とき)范蠡(はんれい)無きにしも非(あら)ず。御心(みこころ)ならぬいでましの、御袖(みそで)露けき朝戸出に誦(ずん)じて笑(え)ますかしこさよ、桜の幹の十字の詩。天(てん)勾践(こうせん)を空(むな)しゅうする莫(なか)れ、時(とき)范蠡(はんれい)無きにしも非(あら)ず」

赫居世居西干

新羅の初代王・赫居世居西干のY染色体は、ハプログループO1b2a1a2a1a(O-CTS7620)の系統に属すると推定される(注1)。これは、赫居世居西干の子孫にあたる朴氏男性複数名から得られたサンプルを解析した結果に基づく。解析の結果、朴氏男性の32.4%がO1b2a1a*(O-F1204, xCTS10145)に属し、14.1%がO1b2a1a1(O-CTS10145)に属していることが明らかとなった(注2)。 赫居世の子で、第2代新羅王・南解次次雄(なかつつのお)は、住吉神社の祭神「中筒男命(なかつつのおのみこと)」と同名で、日本名を持つことで知られる。
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伝説によれば、新羅六部の長が霊気に導かれて辿り着いたところに、紫の卵があった。卵を割ってみると中から男の子が現れ出て、その容姿は優れていた。村長たちはその子を沐浴させると、体の中から光が出てきたとされる。この大きな卵が「瓠(ひさご/ひょうたん)」に似ていたため、辰韓語で「」を意味する「朴(박/パク)」を姓としたという。赫居世は13歳の時、推戴されて新羅の初代王となったとされる。
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韓国の歴史書『三國史記』によれば、日本人で新羅王家の宰相を務めた「瓠公(ホゴン/ひさごのきみ)」に関することや、日本から渡来して新羅の王となった昔氏の王統に関する詳細な記述があり、O1b2a1a2(O-F2868)や、O1b2a1a1(O-CTS10145)は、中国大陸には殆ど見られずベトナムやマレーシアなどに見られる南方由来の系統である為、後世「赫居世居西干」と呼ばれるようになった説話の人物は日本列島を経由して朝鮮半島へ北上したか、日本列島に滞留して弥生文化を作り上げた日本人の一人であった可能性が高いと指摘されている。

史実によれば、3世紀頃、朝鮮半島の南東部には辰韓十二国があり、その中に斯蘆国があった。辰韓の「辰」は斯蘆の頭音で、辰韓とは斯蘆国を中心とする韓の国々の意味と考えられている。「秦韓」と書いて「秦」の時代に万里長城の建設の為に駆り出された工夫が逃げ出して建てた国とする説は、後世の牽強付会であるという。新羅は、この斯蘆国が発展して基盤となって、周辺の小国を併合して領土を拡大していき、国家の態をなしたものであると考えられている。「新羅」という国号は、後に正式に国号と認められたもの。

『太平御覧』に収める『秦書』には、「377年に前秦に初めて新羅が朝貢した」と記されており、382年には新羅王・楼寒(ろうかん/ヌハン)が朝貢を奉り、その際に「新羅の前身が辰韓の斯盧国である」と前秦に上表したとされる。この「楼寒」については王号の「麻立干」を表すものと見られ、該当する王が「奈勿尼師今」に比定されている。記述から奈勿尼師今の即位(356年)が新羅の実質上の建国年とも考えられている。また梁の『職貢図』では、「新羅は、あるときは韓(高句麗)の属国であり、あるときは倭の属国であった」と記述されている。(原文:「斯羅國,本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實一也。或屬韓或屬倭,國王不能自通使聘」/訳文:「斯羅國は元は東夷の辰韓の小国である。魏の時代には「新羅」といい、劉宋の時代には「斯羅」と言ったが同じ国である。或るとき「韓」に属し、あるときは「倭」に属したため国王は使者を派遣できなかった」)とある。さらに、『広開土王碑』や『中原高句麗碑』(韓国国宝第205号)には、「新羅は、時期によって「倭」や「高句麗」によって支配されていた」と書かれている。Y染色体の調査結果によれば、朝鮮半島固有のハプログループというものは存在せず、中国系(O2系統)か、日本系(O1b系統)か、モンゴル系(C2系統)のいづれかに大半が属するという。

注2)調査結果の「O1b2a1a(O-F1204, xCTS10145)」は、「O1b2a1a2(O-F2868)」の下流に属する「O1b2a1a2a1a(O-CTS7620)」の可能性が高いと考えられている。

蘇伐都利

古朝鮮時代・辰韓(斯盧)の六部の一つ突山高墟村(後の沙梁部)の村長・蘇伐都利(Soborutori)のY染色体は、ハプログループO1b2a1a2a1a(O-CTS7620)である(注1)。これは彼の子孫から得られたデータに基づく。弥生時代に日本列島から朝鮮半島南部に進出した蘇伐都利の子孫が慶尚道(慶州)に世居して慶州崔氏と呼ばれたと言われる。本貫の「慶州」は現在の「韓國慶尚北道慶州市」にあたる(注2)。
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   (『三国史記(新羅本紀-崔氏)』)
『三国史記』によれば、古朝鮮時代・辰韓(斯盧/現・慶州)では、人々が山間の六つの村に分かれて住んでいた。この六ヶ村の一つ「高墟村」の村長・蘇伐都利(ソボルトリ)が、山の麓の「蘿井(現・慶州市塔里)」の林の中で、馬が嘶いていることに気づき、その場所に行ってみると、馬はおらず変わりに「大きな卵」があり、その卵を割ると中から男児が出てきたので、村長たちはこれを育てた。男子は10歳を過ぎる頃には人となりが優れていた。出生が神懸かりでもあった為、六ヶ村の村長らは彼が13歳の時、彼を推戴して王とした。彼は即位して「赫居世居西干」と名乗り、国号を徐那伐(ソナボル)とした。これが新羅(斯盧)の始まりであると言う(注3)(注4)。

注1)FTDNA"Korea DNA - Y-DNA SNP (慶州崔氏)"(Kit Number:311579, Choi)
注2)『三国史記』と『三国遺事』では、崔氏と鄭氏の始祖の記述が真逆となっているが、通常は『三国遺事』より以前に編纂された『三国史記』の記述が正しいとされる。
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注3)赫居世は、後の朴氏の始祖
注4)「蘇伐都利」は「蘇伐公」とも書かれる。「蘇伐(ソフル)」とは韓語で「都(ソウル)」を意味し、「都利(トリ)」は「村長」を意味する。よって「蘇伐都利」とは「都の長」、「都知事」を表す言葉。朝鮮半島では、王家の始祖が人智を超えた英雄とし、「卵」から生まれたと説く伝承(卵生神話)が多く見られるが、日本では全く存在しない。「卵」を「桃」に置き換えると「桃」から生まれた「桃太郎」と言う少年が傑物で、青年になって鬼退治を行ったと言う説話が、日本では岡山県にわずかに伝わる程度である。

崔致遠

新羅末期の文人・崔致遠(さい ちえん, 858-  )のY染色体は、ハプログループO1b2a1a2a1a(O-CTS7620)である(注1)(注2)(注3)。これは崔致遠の子孫から得られたサンプルに基づく(注4)。崔致遠の本貫は、慶州(月城)崔氏。その祖先は弥生時代に朝鮮半島南部に進出した人々で、新羅王朝の建国時に慶州に移り住んだ古朝鮮の高墟村(後の沙梁部)の村長・蘇伐都利に続く家柄といわれる。
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       (崔致遠)          (崔致遠の子孫)

DYS 393 390 19 391 385a 385b 426 388 439 389i 392 389ii
Alleles 13 23 16 10 10 20 11 12 12 13 13 28

崔致遠が著した『釈利貞伝』には、「大伽耶国の始祖は、日本から来た伊珍阿鼓(イジンアギ)である」と記載されており、元・韓国国民大学学長の李鐘恒は、著書の中で「伊珍阿鼓(イジンアギ)」は日本の「伊奘諾(イザナギ)」のことではないかと見解を示している。崔致遠の本貫は、慶州(月城)崔氏。その祖先は弥生時代に朝鮮半島南部に進出した人々で、新羅王朝の建国時に慶州に移り住んだ古朝鮮の高墟村(後の沙梁部)の村長・蘇伐都利に続く家柄といわれる。

ハプログループの解析の結果により、慶州崔氏全州崔氏は、同一父系に基づかない男系子孫同士であることが明らかとなった。

注1)The Genographic Project 2.0 "OUR STORY"
注2)ISOGG Tree 2017(ver.12)による表記。原文のISOGG 2014による表記では「O2b1b(O-CTS2734)」であるが、FTDNAによるSNPの追加鑑定で「CTS7620」が陽性であることが判明している。
注3)FTDNA"O Y-Haplogroup - Y-DNA"(Kit Number:311579, Choi)

趙璋

高麗 玉川(淳昌)趙氏の始祖・趙璋のY染色体は、ハプログループO1b2a1a2a1a(O-CTS7620)である(注1)。これは趙璋の子孫から得られたサンプルに基づく(注2)。
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    (淳昌趙氏族譜)        (趙璋の子孫)

趙璋は、初名を「趙俊」また「趙俊璋」と言い、光祿大夫、檢校大將軍、門下侍中に任ぜられた。玉川(淳昌)趙氏は、全羅北道淳昌郡の「玉川」を本貫とした氏族で、弥生時代に朝鮮半島南部に進出した人々の子孫といわれる(注3)(注4)。

注4)ISOGG Tree 2017(ver.12)による表記。原文のISOGG 2014による旧表記では「O2b1b(O-L682, subclade-CTS7620)」である。

Y染色体ハプログループO1b2a1a2b系統

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O1b2a1a2b(O-F940)系統の分布図



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  • 最終更新:2019-06-26 06:59:40

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